ジメジメとして暑い日が続いていますね。
こんなときは心が暑がっていますから、
京都の伝統ある扇子でも使って、
涼しい風で心も体も冷やしたいものです。
セレンディピティという会社を興してから、
今日で12年目を迎えました。
12年といえば、一区切りですね。
休まず歩いてきましたから、
さぞかし遠くまで歩いただろうと振り返ってみると、
何の事はない、まだ、同じ町内をウロウロしている。
そんな気がしています。
「大勢のヒトを使っているのだから、ご苦労でしょう」
と年配の方に労いの言葉をかけられることもあり、
「えぇ、ほんと。大変なんですよー」と一応合わせますが、
正直言うと、それほど苦労というようなことはしていない。
強いていえば、やっぱりヒトに「失望」したことは多々ありましたが、
「ヒトは自分と違っていて当然なんだ」と
当たり前のことに気づいてしまえば、
それも大したことではなくなりました。
おんなじようにやってもらいたい、
と思うから、なんでできないのとイライラする。
イライラして、思うとおりになればいいですよ。
ところが、そうはならない。
実のところその逆が大半で、
思うとおりになるどころか、
ついていけません、となって逆効果なものです。
カフェというのは客商売ですから、
機転の利かないサービスを一度でもされると、
「まったく気が利かないわ」と
お客さんは怒って二度と来てくれません。
巷には束にして売るほどカフェがあるのです。
素晴らしい店がいっぱいある。
そんなところで、
気が利かないサービスをする店員がいたら、
今回はお金を払うけど、もう二度と来ないわ、
とすればいいだけのことなんです。
だから、キリキリ、カリカリ、
口うるさく、文句を言いたくなる経営者の気持ちも当然ですが、
そんなことをしても、大した効果が薄い。
なにより、小言というのは、言われる方も嫌だけれど、
言った方はもっと嫌な気分になるものですね。
見ざる、言わざる、聞かざるです。
自分の店のことは、
そんなもの自分が一番良くわかっている。
働く店員の「番手」はすべて頭に入っている。
だから、いまお店でなにが起きているか、
およそ見当がつくものなんです。
「番手」とは、紙やすりの粒度のことです。
たとえば、紙やすりの裏に、
#40と書いてあれば、それは荒削りの段階で使う荒目であり、
#220と書いてあったら、それは仕上げに使う細目です。
ボクは店員の番手が、頭に全部入ってますから、
荒っぽい仕事を任せるなら、
番手が小さい店員を使えと指示を出すし、
細かく丁寧さが求められる仕事なら番手が大きい店員を重用する。
番手を間違って使うドジはしない、そこは自信がある。
ただ。
ただね。
人間というのは紙やすりに例えたけれど、
紙やすりではないんです。
荒目のひとは細目に憧れ、その逆もしかり、
出来もしないことを、やってみたいと思うものだということまで、
考慮に入れなければなりません。
その度合いが強い人、弱い人、
強い時期、弱い時期まで、きちんと加味する。
得意なことを伸ばし、褒められればいいのに、
できないことをできるようにしたいと思う人が、
この世になんて多いことでしょうか。
ここまでわかれば、うまくいくか?というと、
そうでもないんですね。
世の中が成熟してますから、
仕上げの高さに、お客さんはすっかり慣れてしまっている。
機械やコンピューターで仕上げれば、
安く精度が高いものができる。
小さな手作りカフェの小さなアラはカバーできませんよ。
そもそも、小さな組織というのは、
ジャイアン、スネ夫、のび太、くらいが関の山で、
荒目、中目、細目、揃ってたら御の字、といったものです。
ドラえもんがいたら、
経営者はいろんな番手をポケットから出してもらいたい。
もしくは、可変式の自在に番手を変える紙やすりを出してもらいたい。
考えられる対策としては二つ。
・いまいる番手で完成できるものを常に考えること。
・足りない番手は自分が補うこと。
ボクは荒目から、細目まで、ざっとだいたいできます。
そうしておけば、いざという状況でも力になれるし、
なにより、それぞれの気持ちを理解してあげられる。
京都の伝統的な扇子作りには、10以上の工程があって、
それぞれ、竹を大きく割るだけのヒト、中位に割るだけのヒト、
紙を貼るヒト、伸ばすヒト、と専門の工房が仕上げていくそうです。
それはとてもとても贅沢なことですが、
小さなカフェの経営者にとっては、なんの参考にもなりやしません。