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2015年03月22日 19時24分 JST | 更新 2015年03月22日 22時49分 JST

「後悔したくなかった」 津波にのまれた南三陸の民宿が4年ぶりに再建されるまで【東日本大震災4年】

宮城県南三陸町の海を見下ろす高台に3月、民宿「明神崎荘」がオープンした。4年前の津波で壊滅的なダメージを受けて営業中止となった民宿を元経営者の佐々木昌則さんが再建したものだ。4年ぶりの民宿経営について、思いを聞いた。

Kenji Ando

3月14日、宮城県南三陸町の防災庁舎で、訪問者の人々に取材していたときのことだった。男性数人のグループに「観光で来たんですか?」と聞くと意外な答えが返ってきた。「会社の元同僚が津波で流された民宿を4年ぶりに再建したんで、これから泊まりにいくところなんだ」。その民宿を訪ねてみることにした。

南三陸町の中心街から2kmほど離れた袖浜地区の小さな岬に、「明神崎荘」はあった。宿の名前は、その岬の名前から採ったという。赤く染まった夕日が、志津川湾の漁船に反射してキラキラと光っていた。新築の3階建ての建物に入ると、経営者の佐々木昌則さん(48)が出迎えた。3月10日にオープンしたばかりだという。

「取材したい」と申し入れると「はい、いいですよ。元同僚から記者の人が来るかもしれないよと聞いてたんです」。慌ただしい業務の合間を縫ってインタビューすることにした。

■想像を絶した光景に「涙は出なかった」

佐々木さんは1966年、南三陸町に生まれた。高校卒業後、都内の大学に進学。仙台市で会社員をしていた。しかし、2005年に父親が亡くなったことが転機となった。袖浜地区の鉄筋2階建ての民宿「向(むかい)」の経営と、カキ養殖を引き継いだ。39歳にして、サラリーマンからの転身。全く畑違いの仕事をすることになった。

民宿の経営も、養殖業も初めての経験だったが、徐々に軌道に乗ってきた。5部屋の民宿が手狭になってきたので、併設する自宅の3部屋を宿泊用に改装した矢先だった。2011年3月11日。運命の日がやってきた。

「養殖カキを上げに行って、岸壁に船をつけてすぐでした。フォークリフトでカキをつり上げてタンクに移動中でしたから。津波が来ると思いました。これは今までとは違う、大きいの来るなと。すぐその場を離れて宿にいた母親と一緒に高台に逃げました。幸いお客さんは泊まってない日でした」

南三陸町は1960年のチリ地震で大きな被害を受けていたが、袖浜地区の被害はなかった。しかし、3月11日の津波は、明神崎の手前にある低い所から流れ込み、民宿「泊」をのみ込んでいった。柱の折れる音、木が折れる音が、バチバチ、バチバチと鳴っていた。聞いたこともない音だった。強い引き潮があらゆるものを海に引きずり込んだ。

「祖父から、チリ地震のことはよく聞いてたんです。『大変だったんだ』って。うちの所有する田んぼが志津川の町内にあったんですが、そこも全部津波につかったと聞いていました。でも、袖浜は大丈夫だと思っていました。チリ地震もここに来なかったから来ないという思いは、両親もみんな持っていました」

その日、佐々木さんは近所の民宿のマイクロバスに泊まった。エンジンをつけっぱなしにしてエアコンで暖を取った。情報はカーラジオだけだった。妻は小中学生の息子たちを迎えに行き、高台の学校に留まり無事だったが、4階まで水に浸かった公立志津川病院に入院していた祖母は亡くなった。数日後に見た民宿「泊」は、壊滅的なダメージを受けていた。

「民宿自体は鉄骨の建物なので、外側は残ったんですよ。でも中に入ってみたら、もう滅茶苦茶な状態ですね。階段を支える太い柱も滅茶苦茶に折れていました。畳も剥がれていて、とても使える状況じゃなかったんです」

その光景を見た佐々木さんは、涙を流すことはなかった。「こんなことが起こるのか」と、ただ呆気に取られていたという。

「あのときは、あまりにも想像を絶したので、涙が出るとか、そういうのは本当になかったですね。何が起きたのかというだけで、悲しいという気持ちにすらならなかったです」

南三陸町の公式サイトによると、震災前の人口は約17000人だったが、町内の死者は620人。行方不明者は213人に上った。町民の約4%が犠牲になった。

津波が来るまで経営した民宿「向」の跡地を案内する佐々木昌則さん

■広島への転居 故郷への募る思い

小学校の教室を改造した避難所で暮らすこと数日。妻から「行くとこなければうちの実家へ」と、小中学生の子ども3人と広島県に向かった。妻の実家に行く途中、広島市営住宅が、被災者への仮設住宅として貸し出すという話を聞いて、入居を決めた。

市の嘱託職員や道路工事の警備員をして、生計を立てた。しかし、佐々木さんの脳裏からは、南三陸に残った人たちのことが離れなかったという。

「別世界に来て、ふるさとから離れてしまったという感覚はありましたね。ふるさとを捨ててしまっていいのかな、というの心が強くなってきました。このまま、南三陸の土地の権利も中途半端だし、家の流された土地だって、そのままでした。放置した状態で広島に逃げてきたようなかたちで、後ろめたさがあったんです」

南三陸町に立ち寄った佐々木さんは、宮城県が中小企業向けに施設の復旧を補助する「グループ補助金」制度があることを知る。それが転機となった。申請が認められれば、県が4分の3を補助してくれる。諦めていた民宿の再建が実現できるかもしれない。居ても立ってもいられなくなった。

「何でこっちに戻ったのかというと、後悔が嫌だったんです。あのまま広島で暮らしていたら、後ろめたい、責任を果たさなかった、逃げた、という気持ちをずっと引きずることになるだろうと思いました。それは嫌なので、ふんぎりをつけました」

2013年2月、単身で南三陸に戻り、母親の住む仮設住宅に同居しながら、民宿を再建するために奔走した結果、半年後には許可が下りた。新しい民宿は、以前の場所から80mほど内陸に移動。東日本大震災の津波も来なかった高台にした。

当初は漁業はしないつもりだったが、朝晩の食材を仕入れると高価だ。震災後に引退した漁師から中古船を買い、カキ養殖も再開することにした。震災前と気持ちは違うのだろうか。

「震災前は、亡くなった父の跡を継いで、ただ自分の仕事をやっていくという意識が強かったんです。でも震災以降、いろんな人の協力をいただいて、精神的にも、物理的にもお手伝いがあって、ここまで来られました。今度はこの地区のため、南三陸町の観光業のためにと、以前より大きい意識を持てるようになりました。自分のためだけじゃなくて、何か観光業に貢献したいと思ってます。小さい民宿ですけど、そういう思いは以前と違いますね」

明神崎荘から見下ろした袖浜漁港。多くの漁船が戻ってきた

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