野村克也さんが語る、夫婦愛と野球人生「ボヤかなくちゃ駄目よ」

40年近く連れ添った最愛の妻を亡くした野村さんは、いま何を思うのか。
Eriko Kaji

「ボヤかなくちゃ駄目よ」

"ボヤきのノムさん"こと元プロ野球選手、監督の野村克也さんは、そう語る。

1954年、テスト生として南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)に入団。名キャッチャーとして活躍後、1970年から選手兼任監督を務めた。

その後も、ヤクルト、阪神、楽天の監督を歴任。「ID野球」を提唱し、古田敦也氏など数々の名選手を育てた名将となった。

そんな野村さんが南海を辞めたきっかけは、後に結婚する沙知代さんとの交際だった。

2017年12月、40年近く連れ添った最愛の妻を亡くした野村さんは、いま何を思うのか。夫婦の絆とは? "人間の最期"とはどうあるべきか。

「女運が悪いよ」と、野村さんは笑う。ハフポスト日本版に、お金に苦労した幼少期、野球にかける思いなど、その半生をボヤいてもらった。

野村克也がボヤき続ける理由

Eriko Kaji

――文字数の制限がないwebの記事ですので、野村さんのボヤきはすべて載せられます。どんどんボヤいていただければと思います。

ボヤいてるつもりなんてないんだけどね(笑)。

俺が口開くと、みんな「ボヤいた」って。「〜〜とボヤいた」って。すっかり「ボヤきのノムさん」に。

ただ、俺にも哲学があってね。ボヤかなくちゃ駄目よ。

――なぜですか?

そういうポジションだから。理想家。

キャッチャーっていうのは、常に完全試合を狙ってる。プレイボールと同時に、「今日も完全試合を」って思って、ドーンとやってるわけ。

ところが、ほとんど完全試合はできない。そのギャップがボヤかせるの。

――ボヤかないのは狙っていないと同じ?

真剣にキャッチャーをやってないね。キャッチャーの本質を知らない。

外角を要求してるのに、とんでもない逆球を投げるピッチャーがいるでしょ? 「どこに投げてるんだ」ってボヤく。それがキャッチャーだから。

だから、ボヤかないキャッチャーを俺は信用してない。常に理想主義者なのがキャッチャー。

毎試合、完全試合を狙って30年やったけど、1回もできなかった。それが野球だから。

――早速、奥深いボヤきですね...。

毎日、完全試合を目指す。

ランナーが出ると、次は「ノーヒットノーラン」。ランナーを出したら「完封」ね。

そうして目標設定を少しずつ下げて、1試合ずつやっていく。

そうじゃないとキャッチャーは駄目なの。それがキャッチャーの仕事だと思う。

妻・沙知代さんの死、"人間の最期"とは

Eriko Kaji

――新刊『なにもできない夫が、妻を亡くしたら』では、野村夫妻をバッテリーに例えて、沙知代さんがピッチャーで、野村さんがキャッチャーという話がありました。

俺はそういう星の下に生まれてるのかな。

グラウンドに出てもキャッチャー、家でもキャッチャー。

――沙知代さんは、どんな人だったんですか?

弱音は絶対に吐かない。プラス思考。常に前向き。

――そんなピッチャーが亡くなられてしまったわけですが。

寂しいよね。家に帰る気がしない。

誰もいない家に帰るって、こんな寂しいことはないよ。

――沙知代さんは眠るように亡くなられたそうですね。

本当に、うちの奥さんはさっさと逝った。(会話して亡くなるまで)5分だもんね。

手の上に頭をつけて、じーっとしてて。お手伝いさんが「どうも奥さんの様子がおかしい」って言うから、それで部屋に行って、背中をさすって「大丈夫か?」って言ったら、「大丈夫よ」って。

これが最期。大丈夫じゃなかった。救急車が来て担架で運ぼうとしたときには、もう逝ってた。意識がなかった。

人間の最期ってこんなに簡単なのかなと。いろんな死に方があるだろうけれど、いい死に方だと思うよ。

野球をとるのか、女をとるのか。

Eriko Kaji

――沙知代さんからは、よく「大丈夫よ」という言葉をかけられたそうですね。

沙知代さんが原因で、(1977年に)南海の監督もクビになって。

(沙知代さんは)「関西なんて大嫌い。東京行くよ、東京」ってそのまま3人で名神(高速)とばして。

あのときはもう、野球の仕事はないと思ってた。将来のことを考えて、車を運転してた。

マスコミが「女性問題でクビになった」って報じて、球団の仕事はまったくないと思ってたから、「何して生活するよ? 仕事なんかないよ」ってぶつぶつ言ってた。

そんなときに、沙知代さんが発したのが、「なんとかなるわよ」っていう言葉。この一言で救われたけどね。「本当になんとかなった」って。

――「野球をとるのか女をとるのか」という新聞の名見出しが残っていますが、南海を辞めるときは、どんな心境だったんですか?

沙知代は世界に1人しかいないが、仕事はいくらでもあるんじゃない? って。

――実際、沙知代さんが原因で監督を2回辞めています。2回目の阪神のとき(2001年)は沙知代さんが脱税容疑で逮捕されて、さすがに離婚するんじゃないかなと思ったんですが、されなかったですね。

「 野村克也 ― 野村沙知代 = ゼロ 」だよ。

離婚は全然考えなかった。まあ、結果的にはなんとかなったので。

「捨てる神あれば拾う神あり」っていう、ことわざ通りの人生だったね。

まあ、人の噂も七十五日だけど、今は人の噂も一週間だからね。

母子家庭、お金持ちになりたかった

Eriko Kaji

――戦前・戦中の幼い頃が一番つらかったと。

嫌だったね。もう、お金持ちになりたいっていう一心で、中学時代から考えてたね。

小学校3年生から働いてるんだよ。アイスキャンディー売りから、忙しいお店の赤ちゃんの子守りとか。アルバイトは何でもやった。

――お母様が体を壊されていたときは、新聞配達をされていたそうですね。

親父は、戦争中に3歳と5歳の子どもを残して逝っちゃって。

母親が小学校2年生と3年生のときに、2回がんになっているから。

戦前の医療だから、直腸がんのときはもう助からないという情報もあって、「母親が死んだら、俺の将来はどうなるんだろう」って思ったよ。野球なんかやってられないなって。

奇跡的に助かって、退院してきた。あそこで母親が死んでいたら、野球なんかやってないよ。考えるだけでもゾッとするけど。

――学生時代には演劇部にも入っていたとか。

そんな家庭環境で少年時代を過ごしているから、金持ちになりたくて。

美空ひばりさんにも憧れて、音楽部に入って発声練習からやったけれど駄目だった。

演劇部にも入った。鏡に映る顔を見て、この顔じゃ駄目だなと(笑)。

結局、野球しかなかった。

――お母様は、子どもが独立されてからも1人で暮らすことを望んだそうですね。

兄貴は、世間の人からよく言われたらしいんだよ。「なんでお母さんを京都に呼んであげないんだ」って。ところが、おふくろが「うん」って言わない。

親父の両親がいたからね。親父が長男だから、長男の嫁という明治の女らしい責任感だね。どうしても田舎を離れるわけにはいかんっていう。

嫁との関係も、相当配慮していたと思うよ。できるだけ迷惑をかけないように。

家は京都府の網野町(現:京丹後市)という町を、家賃の安いほうへ点々と引っ越していたんだけれど。

あるとき、突然大阪まで来て、「1人暮らしにいい家を見つけたので買ってほしい」って来たんだよ。

兄貴に相談したら、買ったら駄目だと。「そんなの買ったら、余計出てこない」って。

でも、そのときに母親が言ったセリフがずっと頭にこびりついてる。

「お前らの気持ちも嬉しいけれど、お母ちゃんの言う通りにしてくれるのも親孝行だ」って。そう言われて、そうだなと。それで買ってやったな。

――ずっと働いて、子育てをされて、働いて。

母親は、女として生まれて、不幸な一生を過ごしたなあ。

棺の前で思わず語りかけちゃったけれど、「何しに生まれてきたんだよ」って声が出ちゃった。苦労するために生まれてきたような人生だもんね。

沙知代さんとの運命の出会い

Eriko Kaji

――沙知代さんは出会われた当時、「社長」だったんですよね。名刺に社長と書かれていたと。

35、36歳だったかな。まず、名刺をもらったときにびっくりした。

「代表取締役社長 伊東沙知代」って書いてあった。「社長ですか?」って聞いたら「そうですよ」って。

当時はボウリングブームだったので、ボウリングの球を仕入れて、日本で販売してた。だから、当時の有名なボウリング選手はよく知ってるよ。アメリカにもよく試合に行ってた。

――当時、野村さんは前妻の方と別居されていた。

みんな、「サッチーさんができたから前の嫁さんを捨てた」って思ってるけど、全然関係ない。

最初の奥さんが、どうしようもないお嬢さんだったから。浮気していたんだよ。あの時代、女性が浮気するなんて、考えられなかった。

でもあの当時、野球選手って将来が不安だから、社長令嬢との"逆玉の輿"を狙うのが流行ったんだよ。

別居中にサッチーさんと東京でばったり出会って。女運が悪いよ。

――沙知代さんは、英語がすごく堪能だったんですよね。

うん。でも経歴は、もう100%嘘だった。

英語をペラペラ喋るから、英語をどこで身につけたのかって聞いたら、「コロンビア大学よ」って。

――信じたんですか...?

信じたよ。最初の(アメリカ人の)旦那のことも隠し通してたね。

――沙知代さんのお父さんお母さんとも、結局会わずに。

会わせろって言ったんだけれど、そのうち会わせるからって。

会わずに終わっちゃった。

――謎すぎますね(笑)。沙知代さんが選挙に出て、経歴詐称が分かったときはどんな感じだったんですか?

「お前の経歴、嘘じゃないか」って言ったら、「あなたに関係ないでしょ」って。

ガーンってなった。その一言で終わりだよ。これ以上言っても無駄だと思って。

まあ、引っかかった俺が悪いんだけれど。

名将が明かす夫婦円満の秘訣

Eriko Kaji

――今思うと、夫婦円満の秘訣は何だったのでしょうか?

諦め。

諦めが役に立つときはたったひとつ。新しくやり直すときだけ。

そのとおり。格言通りだった。

――昔、野村さんは「ON(王貞治さんや長嶋茂雄さん)がヒマワリなら、オレはひっそりと咲く月見草」って表現されていました。沙知代さんを花で例えると?

考えたこともないけど、俺にとってはヒマワリかも。

サッチーさんとの出会いで、俺の運命変わっちゃったもん。東京に来るきっかけもつくってくれたし。

サッチーさんと出会わなきゃ、今頃まだ大阪にいたからね。毎日放送で解説やってた。

――沙知代さんと結婚して、幸せだったと言い切れますか?

克則を生んでくれたからな。克則が全てだよ。

止まらない野球界へのボヤき

Eriko Kaji

――今は仕事が生きがいだそうですが、忙しいと気が紛れる部分もありますか?

歳が歳だからね。この歳で仕事がくるっていうのはありがたいね。

なんで俺に声がかかるのかわからない。

――楽天を辞めた時も、成績ではなく、年齢で制限するのはおかしいと指摘されていました。もし声がかかったらもう一度やりたいですか?

そりゃあ、「俺 ― 野球 = ゼロ」だもん。

俺から野球をとったら何になるの?

――今の球界の監督人事を見ていると、実力よりも年齢や人気、若さが優先されているような気はしませんか。

オーナーとか社長は、野球を全く知らない人ばかりだから。そういうのを見ていて、野球界の将来は大丈夫かな?と思っちゃう。そこがメジャーリーグと違う。

メジャーには、ちゃんと球団の代表とかその立場の人には、野球経験者がひっついているからね。日本はそこがずっと昔と変わらないよね。

楽天は星野が代表に就いていたけど、死んじゃったからな。やっぱり野球経験者が代表になるようにならないと、本当の野球はできないよ。

プロ野球の監督っていうのはどういうものか、真剣に考えてほしい。

日本の野球界には、三原脩、水原茂、鶴岡一人っていう三大監督みたいないいモデルがいるんだから、こういう人に近い人を監督にしてほしいよね。

ちゃんと計画的にチームを運営していかなきゃね。

今はそういう能力よりも処世術で決まる時代だから、悲しいよね。今の監督を見ればわかるから。みんな処世術がうまい。

俺は本当についてるわ。いい時代に生きられたわ。

――最後に、ボヤきと愚痴は、どう違うのでしょうですか?

ボヤきはいいんじゃないの?

ボヤきの反対が理想だから。理想通りいかないからボヤく。

愚痴は駄目だな。愚痴は理想も何もない。

――理想があるからボヤく。

そう。理想通りにいかないじゃない。そのギャップがボヤかせるわけ。

――完全試合がありますからね。

ボヤけ。ボヤかないと。

Eriko Kaji

野村克也(のむら・かつや)

1935年、京都府生まれ。京都府立峰山高校を卒業後、54年にテスト生として南海ホークスに入団。現役27年間にわたり球界を代表する捕手として活躍。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王など、その強打で数々の記録を打ち立て、不動の正捕手として南海の黄金時代を支えた。70年の南海でのプレイングマネージャー就任以降、延べ4球団で監督を歴任。選手を立ち直らせ、チームの中心選手に育て上げる手腕は「野村再生工場」と呼ばれ、ヤクルトでは「ID野球」で黄金期を築き、楽天では球団初のクライマックスシリーズ出場を果たすなど、輝かしい功績を残した。

野村さんの新著『なにもできない夫が、妻を失くしたら』はPHP新書から発売中。

野村克也/PHP新書

注目記事