私が少数派の人たちに共感し、応援し続けるわけ

私がどちらにも共感し何かしたいと思うのは、私もマイノリティという境遇で同じだからです。

バングラデシュとミャンマーで起きているロヒンギャ問題については、皆さんご存知だと思います。この問題が報道でクローズされていることで、記事に書いても良いものか悩み、なかなか書き出せずにいまし

私が、バングラデシュでふだんから一緒にいるのは、この国のマイノリティであるジュマ(11民族の総称)の人々。ざっくり言うと「バングラデシュのロヒンギャ的な立場にある人」と言えます。

今、世界ではロヒンギャ問題がかつてないほど注目され、バングラではミャンマーへの怒りから仏教徒批判なるものも起きていて、その流れからバングラにいる少数民族への批判も以前より強まっています。

ジュマが大好きな私ですが、だからと言ってロヒンギャを嫌悪することもなく、また同情しないわけもなく、複雑な気持ちです。

ロヒンギャの敵はジュマでもなければ、その逆も同じ。私がどちらにも共感し何かしたいと思うのは、私もマイノリティという境遇で同じだからです。変な話かもしれませんが、幼い頃から、変わり者、不思議ちゃん、アブノーマルなどと言われたりしてきました。学校や社会の中で、自分はマイノリティな立場に組み込まれていました。

ジュマの友達といて「どうして彼らといると居心地が良いんだろう?」と約3年間考えているうちに、「あぁ、それ私も分かる!」と共感することが多く、気付いたことでした。

ただ、私ひとりにできることは限られています。こんな時でもジュマ、陰日向に咲くような存在の彼らがささやかに開くお祭があったことを、私の役目としてここで紹介したいと思います。

Natsumizo

今回、少数民族 マルマにとって最も重要な二大祭のひとつ「プロバロナ プルニマ」のために訪れたのは、チッタゴン丘陵地帯のバンドルボン。バングラデシュの最南端であり、唯一ミャンマーと接する地域です。過去記事で何度も伝えているように、チッタゴン丘陵地帯は外国人入域制限が敷かれていて、訪れる時には毎回、政府から事前に許可をとって行かなければいけません。

チッタゴン丘陵地帯と関わって3年......。こことの付き合い方は気が遠くなるほど難しく、しかしようやく許可証を以前に比べてすんなり取れるような現地の人脈ができたり、うまく渡れるようになってきました。

上の写真は、外国人や通される荷物のチェックを行うチェックポスト目前のベンガル人(バングラのマジョリティ)の村のチャ ドカン(お茶屋さん)で、入域許可証を待っていた時のものです。本来許可証は事前に得られるものなのですが、これもまた今回はロヒンギャ問題の影響で発行が遅れ、当日現地で受け取ることに......そのためここで2時間半も待ちましたが、この国のそうした事態や時間のゆるやかな流れにも慣れました。

Natsumizo

現地の友人の家に訪れて、仲良くなったおばあちゃん。会話を深くしていく中で、おばあちゃんの若き日の恋愛話を聞くことができました。

おばあちゃんはマルマ民族です。しかし、旦那さんはなんとベンガル人! この驚きは日本人には伝わりにくいかもしれませんが、ここでは国際結婚以上の大問題。「マルマ・仏教徒・マイノリティ」と「ベンガル・イスラム教徒・マジョリティ」が昔から敵対関係ともいえるこの国では、いまだ9割くらいの国民がこの婚姻スタイルに反感をもっています。

おばあちゃんが結婚した時代は、今よりもっと反感が強い時代でした。現代でも、実家からの勘当や心無い言葉をかけられるほどの事態です。その道を選んだジュマの女性が罵られるのを、私は何度も見てきました。外国人の私の感覚では「好きになっちゃったんだから仕方ないじゃん!」なのですが。

おばあちゃんは言いました。「結婚してからお寺(仏教寺院)には行っていないの。ムスリマン(イスラム教徒)になったからね......」と。信じる宗教を変えるというのは、そうそう周りから認められることではありません。しかし、おばあちゃんのお母さんは亡くなる前、最後におばあちゃんの「彼とのことを認めてほしい」という願いを「分かった......」と聞いてくれたそうです。

「プロバロナ プルニマ」もドルミオ(宗教行事)なので、おばあちゃんはマルマ民族には変わりありませんが、陰ながら楽しむとのこと。

チッタゴン丘陵地帯には、通称「オールド・ベンガリ」と呼ばれるベンガル人の存在があります。このあたりは少数民族の先住地域ですが、ベンガル人も自然と混ざって住んでいました。昔は少数民族9:オールドベンガリ1という割合だったそうで、古くからこの地域と馴染んで暮らしていたベンガル人はもはや少数民族と同じような価値観や生き方で、親しくできたそうです。おばあちゃんの旦那さんもそう。

その後、政府による入植政策や開発が進み、現在では4:6に逆転してしまい、オールド・ベンガリではない他の地方からやってきたベンガル人と少数民族のあいだでは、いざこざが後を絶ちません。

異なる者を理解して、異なることを愛せたら、マルマ・ブッディストのおばあちゃんとベンガル人・ムスリマンのおじいちゃんのように繋がれるのに......と私は悲しく思いました。

Natsumizo

マルマ民族の二大祭のひとつ「プロバロナ プルニマ」は10月の満月の日に行われます。こちらのお祭は、ドルミオ(宗教行事)が多いため、定まった祝祭日より満月などの暦に依拠することが多いのです。

この「プロバロナ プルニマ」は、人々の一年の罪や過失、罰当たりを謝って許してもらう祭事です。また、この3ヶ月前から続いてきたアシャリ プルニマという、制限の多い時期(僧侶は外泊できない、結婚式などの祝い事は控えられる、など)が明けたことのお祝いという意味合いもあるそうです。

今年のプロバロナ プルニマは、ロヒンギャ問題に配慮して例年より小規模に行われました。バンドルボンの街では、上の写真のようなお神輿が道を練り歩き、鳥(だと思う)の腹部あたりにブッダとお線香を備える台があり、目の前に神輿が来るとお祈りをします。

チッタゴン丘陵地帯でも、マルマ × 仏教徒の地域は他にもあるので、その風景はさまざまかと思います。小さな村でも、ささやかなお祈り風景が見られることでしょう。

ちなみに、もうひとつの重要なお祭りは以前紹介したお正月、サングライと呼ばれる水かけ祭りです。

Natsumizo

プロバロナ プルニマの夜、人々は「ファヌーシュ」と呼ばれるランタンを夜空に放ちます。実はこれ、別の満月の夜にもあげられたり、また満月でなくともちょっとしたパーティーであげられたりもします。

東南アジアの仏教国のそれを写真で見ると、そのスケールの大きさに驚かされますが、仏教徒が1%だけのバングラデシュで、地味ながらも楽しく放たれるちょっとしょぼめのファヌーシュを、私はとても愛おしく感じています。子どもたちがトライしては沈んで落ちてしまうのも、見ていて微笑ましいです。

Natsumizo

お祭り会場からおばあちゃんのいる家に戻り休憩していると、友人が「ちょっと隣の親戚の家に行こう」と私を連れ出しました。

その家ではなんと、「ロッキ プジャ」と呼ばれるヒンドゥー教のお祭が開かれていました(プジャとはお祈りの意で、ヒンドゥーのお祭は「○○ プジャ」という名前がとても多い)。

ロッキ プジャでは、家の玄関から神様の祭られている棚の場所まで足跡のような模様が描かれ、私たちもそこを通ってお祈りに向かいます。その後は、各家で用意されているご馳走をいただきながら団欒するようです。

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翌朝、私たちはバンドルボンで最も大きな仏教寺院ショルノ モンディール(ゴールデン テンプル)へ参拝に行きました。多くの人たちが集まり、有名な僧侶(大きな椅子に座っている)と共にお経を読みます。

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ショルノ モンディールの寺院一周には、8つの動物の像が飾られています。これはミャンマーで古くから伝わる占星術で、自分が生まれた曜日によって守護動物が分けられるのだそうです。水曜日だけがさらに午前と午後に分けられるため八曜日となり、八曜日にはそれぞれ定められた方角があって、その位置に守護動物が並んでいるのです。

参拝客は、自分が生まれた曜日の台でお祈りをします。私は、一緒に訪れたマルマの家族とひとつの台でお祈りをし、その後 自分の生まれた金曜日の像の前でお祈りをしました。

......と思っていたのですが、家に帰ってじっくり調べ直したところ、私の生まれた金曜日の守護動物はモグラらしく、虎の前でお祈りしていた自分の写真を後から見て、「あれれ?」と笑いました。

Natsumizo

祭と寺院への参拝、バンドルボンのいくつかの場所を巡った後は、締めのラーメンといきたいところですが、こちらではラーメンに似たバンドルボン名物「ムンディ」が定番です。なんと1杯10タカ(約14円)。

チッタゴン丘陵地帯にはいくつかムンディ ドカン(ムンディ屋)がありますが、ここバンドルボンはその聖地。私はここに来ると一度に3杯おかわり、それも日に3度くらい食べてしまいます!

ちなみにバングラデシュには箸文化がなく、ベンガル人も少数民族も共通して素手で食事をとるので、麺の場合はスプーンでいただきます。それくらいスープ付の麺類はこの国で珍しい食事風景なのです。

今年9月にロヒンギャ問題が大きくなったことで、政府や組織レベルで少しずつロヒンギャへの支援環境が整えられ、この問題が世界に伝わったことで注目も集まっています。

しかし街での実態として、最近少数民族の友人と歩いていると「ロヒンギャ!」と叫ばれることが増えました。以前は「チャクマ!」(少数民族)や「チャイナ!」だったのが、言葉が変わっただけで侮蔑の目は何ら変わっていません。

ロヒンギャ問題ほどの状況悪化が今はないため、あまり世間の目にとめられないジュマの人たちですが、昔からずっと、周りからこんなふうに罵られたり、進学や就職でも差別されたり、故郷への立ち入りさえも制限がかけられたりしてきているのです。

そんな立場に置かれてきたジュマのことを、私は決して見捨てません。

Ambassadorのプロフィール

Natsumizo

Natsumizo

1985年、宮城県女川町生まれ、青森県育ち。日本大学藝術学部映画学科在学時に、ドキュメンタリー制作のためバングラデシュを訪れる。卒業後、Documentary Japanに務める。2014年、学生時代作品への心残りや日本よりも居心地の良さを感じていたバングラデシュに暮らし始めることにし、作品テーマや自分の役目(仕事)を再び探すことに...その中で出会ったこの国の少数民族に魅力とシンパシーを感じて、彼らと共に生活していきたいと思う。ドキュメンタリー作品『One Village Rangapani』(国際平和映像祭2015 地球の歩き方賞および青年海外協力隊50周年賞受賞 http://youtu.be/BlxiN2zYmjE)、カメラ教室、クラウドファンディングや写真集『A window of Jumma』の制作などを行ってきたが、この地で映像作品制作を続け、この先は映画上映会(配給)や映画祭などの企画にも挑戦していきたいという夢を抱いている。

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