「医師としての自己変革 -清心事達-」第1回

2015年4月から星槎(せいさ)大学大学院教育系研究科教授を拝命することとなった。卒後12年目で初めて「自分を見つめなおした」わけである。この大きなターニングポイントまでのいきさつをお話させていただく。
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【はじめに】

一般社会とは異なり社会人経験が圧倒的に少ない若い医師にとって、忙しい日常業務の中で自分を見つめなおす時間は思いのほか少ない。自分の目指す専門分野のために研鑽を積むことになるが、激務のために体調変化をきたすことも珍しくなく、現代版「医者の不養生」といえよう。

しかし、患者に寄り添う医療を十分に提供するためには、医療のみならず医療以外にも日々目を向け勉強する必要がある。そのような中で、医師不足・医師偏在への対策が奏功しているのか、あるいは長引く不況による影響か、少子化による受験人口の減少をよそに、最近は医学部受験への人気が特に集中しているという。

さらに医師として仕事をすることを見据えて、中高生の時から医師の何たるかなど全人的な対策が学校や塾で取られ始めている。12年目の医師である私の学生時代とは隔世の感がある。

かくいう私は、崇高な医師像をかかげていたわけではなく、医療に貢献できるような「立派な研究者」を目指して医学部へ入学し、卒業、そして医師となった。医学部卒業後10年も過ぎると、大学の同級生や仕事関係の友人とばったり会って交わされる近況報告は、研修医時代の新しい手技への興奮や忙しさへの愚痴、専門が決まってからの日々の診療内容や判断に困った例の相談などとは様変わりし、多様を極めてくる。専門医療を高次医療機関で続けている者、長い地方での出向から大学へ戻って大学院へ進む者、研究のために留学する者、研究留学から戻ってきた者、独立して開業する者など。中でも今後の進路に悩みをもつ者が多いという印象を受けた。他職種の同級生も進路について再考することが増えてきているとも聞く。

前置きが長くなったが、青森県弘前市出身の私は、2003年に東京大学医学部を卒業後、臨床研修を経て、東京大学医学部血液・腫瘍内科に入局、主に基礎研究を行い、2009年からは同輸血部で臨床と研究に携わってきた者である。このたび、2015年4月から星槎(せいさ)大学大学院教育系研究科教授を拝命することとなった。卒後12年目で初めて「自分を見つめなおした」わけである。この大きなターニングポイントまでのいきさつをお話させていただく。これから医師を目指す若者にとって、また若手医師にとって、自分の今後を考える参考となれば幸いである。

【上京と進路への迷い】

なぜ医学部を志望したのか、大学でがん研究をしていた父の影響がなかったといえば嘘になるかもしれない。幼少時の食物アレルギーを経験していたことや、脳梗塞を経てがんで亡くなった祖父も影響した。

当時は、がんやアレルギーが研究できればいいなという漠然としたものに過ぎなかったが、両親や弘前での学生時代にであった先生方のおかげで上京でき、東京大学医学部で勉強することとなった。大学進学のための青森県からの上京はとても勇気が必要であった。

「東京は恐いところだから気をつけろ」とよく祖母から言われたが、果たして知り合いのほとんどいない東京は心細いことこの上なかった。その中での心強い助けとなったのは、予備校時代の友人たちと大学でのサッカー部の仲間であった。大学時代に勤しんでいたのはもっぱらサッカーであった。これは、小学生からサッカーを続けてきたことと、大学への受験勉強で高校時代の部活に制約が大きかったこととが影響したと考える。まさに下手の横好きであったわけだが、キャプテンとして臨んだ全国医学部学生大会でベスト4となったことは、楽しかった部活と仲間との協力が結実したいい記憶として残っている。

同級生や他大学の知人が、大学卒業後の進路、特に診療科をそれぞれ表明する中、学部での臨床実習の経験とがんへの興味から、私は病理学への進路を考え始めた。臨床検体の観察から病気の部位を見極めるプロセスにとても魅力を感じたからだった。

【研修医時代:進路決定因子】

現行のスーパーローテート制度は、医学部卒業後に臨床研修医として内科、外科、そのほかの科の経験を積むもの(2年間の臨床研修は必須)で、研修医は研修施設を選択する際、マッチング制度、いわばドラフト制度を用いている。

私が卒業した2003年は、その制度導入の直前であり、臨床研修は自分の希望する科(病院)で行うことができた。病理学へ進むため、私は東京大学大学院病理学専攻への進学を決めていたが、病理診断にとって臨床情報は欠かせないことから、一般内科の経験を積むべきだと考え2年間の臨床研修を選択した。内科医師としての「いろは」をこの2年間で教わることになるのだが、日々の診療行為から「診断」だけではなく、有病者との対話から治療までのプロセスに大きく引き寄せられることになった。

わずか2年とはいえ、同じ病気でも多種多彩な症状があること、診断・治療を急ぐ病態の判断、治しがたい病気の多さ、慢性疾患のコントロールの難しさ、内科一般における手技の数々、とても考えさせられる機会の多い臨床研修であった。

その中で、悪性リンパ腫患者の治療の中で、病理診断の重要性と難しさ、当時登場したばかりの分子標的薬(Bリンパ球に対する抗体医薬リツキシマブ)の驚きの効果を目の当たりにして、病理診断ではなく、治療につながる研究ができる血液内科への進路変更を悩んだ末に決断した。

【大学院生からポスドクへ:研究生活での刺激】

臨床研修の後、大学院の専攻を血液・腫瘍病態学に移したわけだが、どんな研究ができるのか期待して東京大学血液・腫瘍内科の研究室へと足を運び、血液細胞がつくられる仕組み「造血」と遺伝子の研究をスタートすることとなった。

当時の血液・腫瘍内科におられた先生の講義で、「抗がん剤治療をするに当たって、血球細胞の分化を知ることは大切である」と聞いたのが印象的で、その後の造血幹細胞や白血病幹細胞の研究のモチベーションにもなった。

血液細胞の「親玉」である造血幹細胞をしっかり勉強し始めたわけである。基礎研究の基礎を知らない当時の私にとって、先輩方が話している内容はもはや宇宙人の言語、研究発表を聞いていてもチンプンカンプンという有り様で、ついていくのに必死であった。ただ幸運なことに、黒川峰夫血液・腫瘍内科教授のご指導のもと、先輩が作製された遺伝子改変マウスを使い、胎児期における造血の研究を3年かかりながらも英語論文としてまとめることができ、医学博士の学位取得となった。

その過程の中で、大きな印象として残るのが、学会での研究成果発表であった。大勢の前で発表することが苦手であった私は、自分の研究内容を相手に分かるように説明するのがかくも難しいものかと痛感していた。

父親と学会で遭遇するという奇妙な機会があったのもこの大学院生の時期からで、交わす会話の内容からも、父親の仕事内容をいくら聞いてもわからなかった幼少期と比べて大きな進歩だと感じた。

2007年にアメリカ血液学会での研究発表の際、友人の紹介で1週間のホームステイをし、久々の英語圏での日常生活を体験した。幼少時に父親の留学のためテキサス州ヒューストンで2年間過ごして以来であり、その後英語を日常的に使う機会がなく、外国人との会話に億劫になっていた。英語圏で暮らす際に、「コミュニティに入っていくためには教養がないとダメ」と母親に聞いていたが、確かにホストから「広島の原爆に対する日本人の考え」を問われ、日本人の「中庸」がいかに英語圏で通じないかを指摘され、いつものように都内で過ごしていては決して聞かれもしなければ考えもしないことに虚を突かれ、考えてはゆっくり答え、を繰り返した。このホームステイが、研究成果発表のみならず、その後の英語・英会話へのモチベーション向上のきっかけとなった。

大学院卒業後も同研究室で造血の研究を継続し、遺伝子改変マウスを自作することとなった。この頃になると、先輩方の研究の会話もある程度は内容がわかり、新しい大学院生の指導側に立っていたので不思議なものである。

大学院生時代から1年半をかけて、周囲の研究者や研究補助員の大きな助けもあり、世界初の「造血幹細胞追跡マウス」を作製することができた。自作の遺伝子改変マウスの造血幹細胞の緑色蛍光を確認できたときは身震いしたのを今でも鮮明に覚えている。

このマウスを元に、造血幹細胞だけでなく、血液疾患の代表格白血病の幹細胞についても研究を進めていった。その後数年をかけて、大学院生とともにその成果をいくつかの学会発表や英語論文で公表するに至り、国内は元より海外研究者との共同研究も増えていった。

この時期になると英語でのやり取りへの億劫さが消え、あらためて幼少時のヒューストン生活に感謝することとなった。また、「ワーキングプア」状態になっている就職先の少ないポスドクの現状からすると、幸運にも大学病院の非常勤職員として勤務しながら研究を継続することができた。

次回は、転身のきっかけと今後の取り組みについてお伝えしたい。