人との接触がなくても、私が寂しくない理由

「寂しい」も「不快」も入り込む余地がない、私の“ひとり”暮らし
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Nonoka Sasaki

人との接触を求める人たちが、かえって私を寂しくさせる

人を避けて生活し始めて半年ほどになる。

半年前と言えば、コロナウイルスが蔓延する以前のこと。フリーランス稼業で元々家にいることも多かったが、この冬は心身のバランスを崩して特に家に籠りがちだった。今のところ取材や打ち合わせもオンラインで事足りているから、経済的な困窮はあれど人と距離をとることに関しては困っていない。ネット上の同調圧力と相互監視が堪えるので、オンライン上での繋がりすら積極的に距離を置いている。

だからオンライン飲み会を頻繁に開催したり、オンラインゲーム上で人との交流を楽しんだりしている人を見て、世の中の人たちはこんなにも人との交流を求めているのかと、遠い国の人と出会ったときのようなカルチャーショックを受けた。私には世の中の人たちほど交流する友達がいないことや、自分の中に人と接触したい欲求がほとんどないことに気づかされ、ひとりでいるときよりもずっと寂しい気持ちになる。

「寂しい」も「不快」も入り込む余地がない、私の“ひとり”暮らし

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Nonoka Sasaki

 

ただし、私がひとりでいても平気なのは、一緒に住んでいる猫・みいちゃんに救われているところも大きいように思う。

朝はけたたましく鳴くみいちゃんの声で目を覚まし、甲状腺の持病がある彼女のために錠剤を砕いて飲ませるところから朝が始まる。出かける用事もない中で1日2回の投薬は私のルーティーンになってくれている。

机に向かって作業をしている間にも「ご飯をくれ」と鳴いたり、遊んでほしさにPCの上に乗ってきたり。机の脇にあるトイレでいきみ始めるのを見かけたら、肛門脇を押して便を出すのを手伝う。腸が変形してしまった老猫・みいちゃんは自分で便を出すことができない。

いきみすぎて胃に負荷がかかり、せっかく口にしたご飯や薬を吐いて痩せていってしまうので、疫病が蔓延し始める前から、トイレのたびに介助してあげるのが理想的ではあると病院の先生に言われていた。その意味で今の状況はみいちゃんの介護に役立っていると言ってもいい。

仕事がひと段落ついた夕方にはマスクをつけ、人混みを避けながら散歩する。心の拠り所として週に2~3回通えていたジムにも行けなくなった今、散歩は生活で一番の楽しみだ。自分の足で歩けることは、自分の生活を自分でコントロールできなくなった(あるいは不自由だったことが改めて露呈した)今の状況においてとても心強いものだ。

そして、散歩の時間は、みいちゃんと適切な距離を取れる唯一の時間でもある。声が大きいうえにおしゃべりでかまってほしがりなみいちゃんはいくら可愛くても四六時中一緒にいると疲れる。

みいちゃんには言葉が厳密には伝わらないからと諦めているところがあるけれど、これが小さな子どもだったらと想像すると視界が数段暗くなった。在宅要請によって急増している虐待やDVの被害に遭っている人の身を案じることはもちろんだけれど、自分が子どもやパートナーと同居していたら加害側に回ることもありえない話ではない。

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Nonoka Sasaki


帰宅してからは適当な食事をつくって食べる。最初の頃は自炊も新鮮だったけれど、最近は自分のつくったご飯やひとりでの食事に飽きてきたので、ちゃぶ台の足をたたんで床に直に天板を置くようなかたちにし、みいちゃんのご飯と私のご飯を並べて置いて食卓を一緒に囲んでいる。まぐろ缶を皿に空けた先から一心不乱に食らいつくみいちゃんの食事風景は生きる希望をくれるスペクタクルだ。

ご飯を食べてもう一仕事したら、ベッドに入って本を読んだり、みいちゃんと遊んだりする。最近は、寝ているみいちゃんの身体に耳を押し当て鼓動を聞く「聴診器ごっこ」や足で布団を押し上げてベッドとの間に空洞をつくる「トンネル遊び」などを発明した。砂漠生まれの祖先を持つ猫のみいちゃんは大興奮で“トンネル”の中に入り、掻けない砂を懸命に掻いている。そうやって遊び尽くして気づけば朝が来てだいたい4時過ぎに眠る。

 

コロナ禍で浮き彫りになった「距離」と「言葉以外のコミュニケーション」

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Nonoka Sasaki

こうして書いてみると、私の生活に寂しさが入り込む余地はない。むしろソーシャルディスタンスが求められる人間同士で同居や接触をしているほうが、寂しさや、遠かれ近かれ「距離」の存在を意識することになるだろう。

たとえば、パートナーとの関係において「ノンバーバル(非言語)コミュニケーションが取れないことがつらい」と話してくれた知人がいた。今までふたりの間に架かっていた言葉以外の関わりが外されたことで、ふたりの間がギクシャクし始めたのだという。一方で、あまりに近すぎて適切な距離を保てないことで生まれる人間関係の不和もある。パニックで露呈した知人の人間性にショックを受けたという話も聞いた。

こうした浮き彫りになった人間関係の変化を、疫病が流行する前の社会構造に対する言説のように「元々脆弱で不完全だったものが明るみになっただけだ」とバッサリ切り捨てるにはあまりに酷であるし美談にするつもりはないけれど、適切な距離や言葉以外のコミュニケーションが私たち人間同士の関係を取り持ってくれていた、ということは言えるだろう。

その意味でも私は、言葉を交わさずともコミュニケーションできて、この状況下でも適切な距離を保ち、互助しながら仲良くやれているみいちゃんとの生活に救われているのかもしれない。

コロナ以前の世界が良かったとも思えないけれど、今の世界が各々わかちがたい苦しみを抱えているのは確かだ。ひとりひとりにとって、心地の良い時間が少しでも早く訪れることを切に願う。

ただ、個人的で勝手な希望を言ってよければ、何の説明や弁解もなく、人との距離をとれる今のムード自体はずっと続いてほしい。人と人との交流が盛んになり、皆が集まって楽しそうにしている光景を見ると、私は今よりもずっと寂しくなるから。

 

(文・佐々木ののか 編集・笹川かおり)