翻訳をしているという海外の方から、「Diversity and Inclusionの日本誤訳が難しい。どのように訳せばいいか」と、ネットを通じて相談を受けた。
告白しよう。私は英語が話せない。
英文を、辞書を片手にたどることなら、なんとなくできなくはない。けれど、海外の方が「難しい」と言っているものを、私が訳せるはずもない。
「それなのに、なぜ私に?」と思ったのだが、経営しているNPO法人のホームページに、以前、ダイバーシティとインクルージョンに関する私的な考えを掲載したことがある。きっと、その記事をご覧いただいたのかもしれない。
ダイバーシティは、日本では「多様性」と訳されている。そして、ビジネスシーンでは「多様性を認める」「多様性を受け入れる」「多様性を尊重する」などという文脈で、国籍やLGBTをはじめ、マイノリティを尊重する言葉として使われることが多い。
インクルージョンは「包括性」「包含性」「一体性」と訳されている。「多様な人が組織内に多くいる状態」を示す言葉として使われ、ビジネスシーンでは、「多様な人が対等に関わりながら協働している」という文脈で使われることが多い。
これらの意味はインターネットを検索すれば出てくるし、一般的な意味を知りたいだけなら、英語が話せない私に意見を求める必要はそもそもないはず。しかも、私は多様性の専門家でもなければ、大学で勉強したわけでもない。
それでも、私に尋ねて来たのは、ひょっとしたら、英語圏で使われている「Diversity and Inclusion」と、日本における「多様性と包括性」とでは、言葉のニュアンスや意味することが若干異なるのではないか。
ひょっとしたら、それは、日本人が「多様性が大切」と言いながらも、「でも、なんか違うよね」と感じているニュアンスと似たようなものなのかもしれない。実際、私には「多様性」という言葉に若干の違和感がある。
そこで、翻訳者には、「Diversity and Inclusion」に関する「辞典に書かれている内容」ではなく、「多様性と包括性」に関する「私なりの考え」について伝えることにした。その意味が、海外の方に伝わるのか、伝わらないのかは分からないのだけれども......。
「多様性」には「となりの○○さん」も含まれる
「多様性」は一般的に、国籍やLGBTなどのマイノリティ(社会的少数者)や、性別や年代などを一つにまとめて、「違いを尊重しよう」という意味合いで使われることが多いように思う。
もちろん、マイノリティや社会的弱者を尊重するのは大切なことだと、私も思う。
けれども、多様性の対象を、「マイノリティ」や「社会的弱者」に限定しなくてもよいのではないか?と感じることがある。なぜなら、人は、顔も、性格も、価値観も違う。一人一人の個性はそもそも多様だからである。
個人的には、「多様性」の対象にはマイノリティや社会的弱者だけではなく、「となりの○○さん」も含まれるのではないかと思っている。意外と「となりの○○さん」ほど、「っていうか、○○と考えるのがフツウだよね」なんて、ひとくくりにしてしまいがちだから。
「多様性」とは、「となりの○○さん」と楽しく仕事をするためにあるのかもしれない。
ちなみに、サイボウズでは「100人いれば100通りの働き方があってよい」としている。サイボウズ副社長 兼 サイボウズUS社長の山田理は、「多様性」のことを「多様な個性」と表現している。
個人的には、「多様性」よりも「多様な個性」のほうが、なんとなくしっくりくる。そう、人の個性はそもそも多様なのだ。
多様性は無理に「受け入れ」なくてもいい?
また、日本における「多様性」は、「受け入れる」こととセットで使われることが多い。「多様性を受け入れよう」のように。
本来、多様性は、「人にはいろんな考え方があるもんな」「自分とは違うもんな」と理解できればよいのであって、「受け入れなくてもいい」のではないか......と、個人的には考えている。
なぜなら、多様な個性を「受け入れる」のは、荷が重いからだ。
例えば、私には苦手な人がいる。その人を「受け入れよう」としたとき、頭では「受け入れたほうがいい」と理解はできても、感情や身体感覚レベルでは難しそうだ。苦手な人の前でニコニコできるほど、心が広くない(まぁ、それは「人間ができていない」と言われればそれまでなのだけれども)。また、人を傷つけるような狂暴な考えを持つ人を、私は「受け入れる」ことができそうにない。
でも、そういう人もこの世にはいる。事実として。
誰にだって好き嫌いの好みはあるし、誰にだって正義感はある。その正義が正しいのか、正しくないのかは別としても、自分の中にある苦手意識や正義感を無理に押し殺して、苦手な人を受け入れるのは、なかなかできることではないのではないか。
「私には苦手な人など誰一人いないし、すべての人を受け入れられる」という人は、もちろんすばらしいと思う。でも、少なくとも、私には、苦手なものを「受け入れる」ことはできそうにない。
でも、「そこにいる」と認めることならできるかも
でも、「受け入れる」ことはできなくても、「そこにいる」「そこにある」ことなら認めることができるかもしれない。そう、自分の「中に」受け入れるのではなく、自分の「外に」置いておく感じだ。
もちろん、どんなに頭では理解できても、感情の方が強く働くことが往々にしてあるから、ちょっと「嫌だな」と思うことはあるかもしれない。でも、無理に「受け入れなくていい」のなら、「そこにいる」許可を、自分に出せるのではないか。
「私はその考え方は好きじゃないけど、そういう考え方もあるよね」「なるほど、あなたはそう考えるんだ。私はこうだけど」という感じだ。あるいは、「今まで、私はそんな考えをしたこともなかったけれど、確かにそういう視点もあるよね。良い悪いは別として」のように、視点が広がる感じと言ってもいい。
「多様性」とは「無条件に受け入れる」ことではない。だからといって「排除する」ことでもない。さまざまな個性や価値観を排除せずに、「そこにいてもいいよ」とすること。「考え方は違うけど、協力できることは協力しようよ」それが、「多様な個性」なのではないかと思う。
だからといって、「異なる考え方を全部許すのか」というと、そうでもない。特に、ビジネスシーンでは、「みんな違ってOK!」だけでは意見がまとまらないし、コストが掛かりすぎてしまう。
組織というチームで働くためには、「私たちにとって、これって大事だよね」「これからの社会は、こんな風になったらいいよね」という共通の理想や価値観を抱きながら、「一人一人の個性は違うけれど、理想に向かって協力できることは協力しようよ」という、多様な個性が一つの場に集えることが大切なのではないかと思う。
これらを踏まえて、私はこう返信した
これらを踏まえて、私は翻訳者にこう返信した。
○○様
ダイバーシティとインクルージョン。
それぞれの単語の意味は、 ダイバーシティは「多様性」 インクルージョンは、多様な人が集まった組織の「一体性」や「包括性」 という意味になるかと思います。
一方、日本人が抱く「多様性」のイメージには、 国籍やLGBTなどといった 「マイノリティ」や「特別な人」を受け入れるような 意味でとらえる人が多いようです。
本来の多様性とは、マイノリティに限った話ではなく、「一人ひとりの違い」に目を向けることのように思います。
そういう意味では、ダイバーシティは 「多様な個性」と表現するのがいいかもしれません。
インクルージョンの「一体性」や「包括性」は、 日本人はまだ、あまりなじみがない言葉かもしれません。 なぜなら、日本人が抱く「一体性」には、どちらかといえば 「みんな同じ」「同一性」(多様性の反対)のような印象を抱く人も少なくないからです。
インクルージョンを分かりやすく表現するなら、 「多様な人が集まれる場」 「多様な人が受け入れられている状態」 「多様な人がいてもよい空間」 のような表現になるかと思いますが、どうでしょうか。
私にはあいにく、英語の知見はございません。 ご期待に沿った内容か分かりませんが、 参考にしていただければ幸いです。
どうぞ、宜しくお願い致します。
その返信には、「竹内さんの説明が非常にピンポイントで分かりやすい豊富な内容でした。かえって、英語の知見が無い方が助かりました。」と書かれていた。
「これって、褒められているのかな?」という気が、しなくもないけど。
イラスト:マツナガエイコ