日本人は“意識の鎖国”をいつまで続けるのか。ー改正入管法施行ー

上から目線で外国人を線引きするよりも、彼らをよりよく理解し、日本社会とうまく融合してゆけるよう、日本人自身も変わってゆくシステムこそが、時代に即しているのではないだろうか。
Classen Rafael / EyeEm via Getty Images

2019年、日本では入管法の改正により移民政策が大きな転換を迎える。12月 の臨時国会で与党が野党の反発を押し切る形で委員会採決を強行し成立させたこの法案。メディアの議論も毎日炎上していたので、いまだ強い関心を持っている人は少なくないだろう。(もしくは、安倍首相が審議に臨む前に「ややこしい質問」を受けなければいけないと言い、国会を愚弄したことを覚えている方も多いに違いない。)とうとうそれが本日4月1日に施行された。

この改正された入管法はそもそも、少子化と人手不足だから外国人を受け入れるべき、という極めて安易で乱暴な理屈から無理矢理作り上げられた法案である。当然「議論が拙速だ」という批判に晒されてきた。

この法律は、素人の僕が見る限りでも「表面的な喫緊の問題点」が少なくとも2つある。

①法案通過時、在留資格として特定技能の14業種(建設業、農漁業、宿泊業など)の名前を挙げたのみで、各業種の受け入れ規模・人数上限についても何も決めず、「通過してから省令で決める」という省庁への丸投げ、白紙委任であった点。3月に法務省が14業種をさらに詳しく規定したが、12月の時点で箱の中身はからっぽだった。移民政策の根幹に関わる法案の実質が、省庁のブラックボックスで決められ、政治が責任を負わないのはおかしい。 (https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gaikokujinzai/kaigi/dai3/siryou1-2.pdf

②今回の法案のベースとも言える、現行の技能実習生制度の問題点が改善されるか非常に疑わしい点。劣悪な労働環境、賃金未払い、雇用者の暴力など醜悪な実態が糾弾されている外国人技能実習生の実態が、野党議員の追求により明らかとなった。

この法案を読んで驚愕するのは、日本が、移民について理念なきまま、場当たり的システムを作るという愚を犯していることだ。上で述べた「表面的で喫緊の問題」よりももっと深いところに問題の本質があるのに、それをスルーしてしまっている。本稿では、これについて言葉を尽くしたい。

そもそも現在日本は、対外的に移民を認めていない国家であり、単純労働による在留資格は認めていない。その背後には、単純労働が移民流入の大きな呼び水となるという考え方がある。しかし、今回の改正入管法の「特定技能1、2号」こそ、単純労働にもなりうるし、移民受け入れの枠組みになりうる。特に家族帯同もOKで、在留期間の上限は設定されておらず、(3年/1年/6か月ごとの)在留期間を更新ができ、10年以上在留などの条件を満たせば永住申請も可能となる。つまり、「特定技能2号」は、外国人からみれば“移民&定住コース”に見える。

一方、政府の見解としての「移民」の定義は、入国の時点で永住権を与えられた外国人であり、それはやっていないから日本は「移民受け入れ」をしていないという立場だ。入国時に永住権がもらえるなんて世界中どこでも難しいだろう。そんな常識外れのトンデモ定義により、「移民受け入れナシ」という日本のタテマエが担保されている。

つまり、新たな入管法の本質的な問題は、明らかに移民を受け入れる移民法であるにも関わらず、政府が認めずに、本音よりタテマエで塗り固め、現実に即さない制度になりつつある点である。

これは、意識の鎖国である。

今の日本社会を見れば、コンビニでも、工場でも、ホテルでも、畑でも、漁船でも、外国人の労働力は重宝されている。日本人がやりたがらない仕事をやるというよりも、今や日本人よりよっぽど優秀でまじめだから、という声もよく聞く。

上から目線で外国人を線引きするよりも、ドイツのように移民と「共生」を打ち出し、彼らをよりよく理解し、日本社会とうまく融合してゆけるよう、日本人自身も変わってゆくシステムこそが、時代に即しているのではないだろうか。

「意識の鎖国」は何も日本だけの問題ではない。世界に目を移してみれば、移民問題はいま、地球規模のイシューとして年々深刻化している。それは、グローバリゼーションがもたらした流動性などという生易しいものではなく、シリア、イラク、ミャンマー、南スーダンなど、苛烈極まりない内戦により、国を追われた難民が世界中に押し寄せ、それまで統制の摂れていたシステムを破綻させているのが大きな要因だ。トルコを経てEU諸国に押し寄せるシリア難民をブロックしようとハンガリーをはじめとする各国が躍起になっているのはよく知られているが、欧州だけではなく、移民流入をなんとか押し返そうという感情的な拒否反応は、いま世界中で見られる。

この「意識の鎖国」は、果たして解決不可能な永続問題なのだろうか?

2018年11月東京・有楽町で開催された国際映画祭「東京フィルメックス」では、カンヌ、ベネチアでプレミア上映されたクオリティの高い作品が多く上映されたのだが、そこでは移民や辺境に追いやられた民族というテーマがひと際目立っていた。母国で居場所を見出だせず、虐げられ、社会の隅っこに追いやられる人々を描いた作品がひとつの潮流を形作っていた。

フィルメックスの最高賞グランプリを受賞した「アイカ」(セルゲイ・ドボルツェヴォイ監督)は、モスクワで不法滞在するキルギスタンからの移民女性アイカの人生を活写した。コンペで上映された「幻土 A Land Imagined」(ヨー・シュウホァ監督)は、アジアの交通の要衝・シンガポールに集中する多国籍の移民労働者が、富裕層と貧困層のどうにもならぬ格差が広がり続ける資本主義の矛盾に翻弄される姿を追う。彼らの存在の脆さ、儚さが見る者の胸を締め付けた。タイのプッティポン・アルンペン監督「マンタレイ」は、ロヒンギャ難民とミャンマーの漁民の友情(もしくはゲイ・ラブ)を描いた秀作であった。

内戦やテロ、差別で迫害され社会の隅に追いやられた人々が、難民/移民として世界各国に広がっているという現代の不条理を、世界の映画作家たちは逼迫した問題として受け止めていた。彼らが「自分と異なるものを排除しようとする」排斥主義について沈思してゆく姿勢はとても誠実であり、かつそこに大切な哲学がある気がした。

人類史を振り返れば、人間はずっと自分と他者を差別化する境界線を引き続けて来た。中世のヨーロッパでも、江戸時代の日本でも、支配者による封建制度は、強固な身分制度に基づいていた。それが、強者が弱者をコントロールするために必要なシステムだったからだ。しかし、そんな身分制度が(一部を除き)なくなった現代でも、人種差別、宗教の違い、肌の色、民族の違いで、人間は別の境界線を引き、互いの差別化は終わらない。本来人間は平等という本質は、多くの人が理性では分かっているはずなのだが、いつの間にか有名無実化し、一部の人間が他者(ときに部外者)から身を守る手段として、境界線を引き続けるというのは、決して止まない。人間の性(さが)といっても良いだろう。

手前味噌ながら、私は拙作劇場用映画「ポルトの恋人たち 時の記憶(原題LOVERS ON BORDERS、主演柄本祐、中野裕太、アナ・モレイラ。監督舩橋淳)」で、まさしくこの人類が抱える「境界線を引き続ける性」をテーマとした。18世紀のポルトガルと、21世紀オリンピック後の日本。二つの時代と二つの国を横断する異色のラブミステリーである。

第一話は、1755年首都を壊滅させたリスボン大震災(東日本大震災と同じマグニチュード9.0)直後のポルトガルにやってきた日本人奴隷たちが、身分制度が強固なポルトガル社会で苦難を生き抜いてゆく物語。第二話は近未来2021年の日本、派手にぶちまけた東京オリンピックが一段落し、人々がその巨大な累積赤字と向き合い、もはや誤摩化せない暗い未来を自覚した時、移民排斥に駆り立てられるだろうというお話だった。

この二話からなる映画で僕が考えようとしたのは、時代と国が変われども、ずっと存在し続け、弱者を迫害する装置となる《境界線》の意味だった。

《境界線》を引き続ける限り、「意識の鎖国」は消え去らない。

いまの日本に根強くあり、入管法の限界となっているのも、これだ。

旧入国管理局(4月1日より法務省から独立し、入国在留管理庁に組織改編)が蔓延させてきた外国人労働者のイメージもおかしい。

旧入管は、いまだ不法外国人労働者を取り締まる機関という趣向が強いし、それは、外国人労働者が増えれば治安が悪化するからと言われている。実際のところ「外国人が増えると犯罪が増加する」事実はない。排外主義の右派による移民反対のプロパガンダでよく唱えられている「治安の悪化」は、まったくのフェイクであることを強調しておきたい。

この外国人労働者=悪というイメージは、むしろ外国人に対する無理解を加速させ、社会を分断するだけだ。そんな馬鹿げたイメージから、我々市民も政治家も解放されなければならない。

旧入管のように外国人を「管理・摘発」する機関ではなく、「支援・保護」するような多文化共生庁として、入国在留管理庁を位置づけるべきではないか、という指摘も多いが、尤もだと思う。違いを《悪》とする同調圧力ではなく、違いを多様性として《是》とするシステムが求められているのだ。

改正入管法施行により、これから移民はどんどん増えるだろう。

日本で家族とともに生きる人生設計をする外国出身の人々が増えてゆく。

しかし、移民の実態に対する理解と覚悟を政府が持たず、また国民に持たせない、「意識の鎖国」のツケがたまり続けるとどうなってしまうのだろうか?

さらなる差別や軋轢の原因になってしまうのではないか?

多くの人は、このことにもう気づいているだろう。

僕たちは、移民と共生をさぐる環境システムを生み出すべき地点に立っている。

国は、潔く「移民」を認めるべきだ。定住者には、社会の一員として選挙権や社会福祉を享受できるよう門戸解放をすべきだろう。それが、世界レベルでの日本人の意識の成長を促すに違いない。

舩橋淳 プロフィール

映画作家。東京大学卒業後、ニューヨークで映画制作を学ぶ。『echoes』(2001年)から『BIG RIVER』(2006年)『桜並木の満開の下に』(2013年)などの劇映画、『フタバから遠く離れて 第一部・第二部』(2012,14年)『道頓堀よ、泣かせてくれ! DOCUMENTARY of NMB48』(2016年)などのドキュメンタリーまで幅広く発表。日本人監督としてポルトガル・アメリカとの初の国際共同制作『ポルトの恋人たち 時の記憶』(主演・柄本祐、アナ・モレイラ)は、2018年度キネマ旬報主演男優賞(柄本祐)に輝いた。

「映画は四角いスクリーンという<窓>=フレームを通して、現実を切り取り、編集し、社会で公開される芸術。目の前にある雑多な現実に対し、ある一つのフレームを与え、それを通して今まで見たことのない世界の深みに気づかせてくれる、そんなコラムを書きたい。」

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