モドリッチ選手は6歳で戦争難民になった。爆撃の合間に練習した少年時代。「あんな体験、誰にもして欲しくない」【カタールW杯】

日本を破ったクロアチア主将の苛酷な体験。「戦争中に育った私は、あんな体験を誰にもして欲しくないと願っています」と、ウクライナ侵攻に反対しています。
2022年12月5日の日本vsクロアチア戦でのルカ・モドリッチ選手)
2022年12月5日の日本vsクロアチア戦でのルカ・モドリッチ選手)
Richard Heathcote via Getty Images

日本代表が悲願とするベスト8進出がかかった対クロアチア戦。日本時間12月6日未明に行われたサッカーのカタールW杯決勝トーナメント1回戦は、1-1の同点のまま延長戦でも決着がつかず、PK戦でクロアチアが日本に勝利した

日本代表を苦しめたのは、クロアチア主将のMFルカ・モドリッチ選手だった。ピッチを縦横無尽に走り回り、右アウトサイドのラストパスという得意技も披露した。99分の選手交代でピッチを離れるまで、37歳のベテランは圧巻のプレーを見せた。モドリッチ選手は、試合後のインタビューで「非常にタフなチームとの極めて困難な試合だった」と激戦を振り返った。

サッカー界のスーパースターとして知られるモドリッチ選手だが、少年時代は苛酷だった。クロアチア紛争で6歳にして祖父を失い、家族ともにホテルの避難所で暮らしていたのだ。この記事では、モドリッチ選手の生い立ちを振り返ろう。

■「僕には一生消し去れない記憶がある」可愛がってくれた祖父が殺害された幼少期

ザトン・オブロヴァチュキ村にあるモドリッチ選手の祖父の家。祖父が殺害された後に全焼した。(2018年4月20日撮影)
ザトン・オブロヴァチュキ村にあるモドリッチ選手の祖父の家。祖父が殺害された後に全焼した。(2018年4月20日撮影)
AFP- via Getty Images

伝記『ルカ・モドリッチ 永遠に気高き魂』(カンゼン)によると、モドリッチ選手は、クロアチア西部のヴェレビト山脈にある人口500人ほどのザトン・オブロヴァチュキ村で育った。両親はニット工場で働き、祖父は家畜の放牧をしていた。

1990年、野生のオオカミをテーマにしたドキュメンタリーの中で、あるシーンが撮影された。YouTubeにアップされた映像には、2分30秒に小さな少年が棒を振ってヤギを放牧する様子が映っている。5歳のころのモドリッチ選手だ。

のどかな山村の光景は、まもなく一変する。1991年6月、クロアチアは旧ユーゴスラビアからの独立を宣言。5年間にわたるクロアチア紛争では、セルビア人勢力らとクロアチア政府の間で激しい戦闘になった。50万人の難民が発生、2万人が犠牲になったと推定されている。

モドリッチ選手が住む村も、セルビア人勢力に占拠された。モドリッチ選手を可愛がってくれていた祖父は1991年12月の深夜、殺害された。『ルカ・モドリッチ 永遠に気高き魂』では、以下のように記述している。

<真夜中、自宅から100メートルのところで道と森を見張っていたルカの祖父が、セルビア民兵に蜂の巣にされたのだ。機関銃のけたたましい音は、家族の住む家にまで届いた>

Netflixのドキュメンタリー「キャプテンズ」の中でモドリッチ選手は「僕には一生消し去れない記憶がある」として、祖父の思い出について、以下のように振り返った。

「祖父のことはいまだによく覚えてるよ。保護者のような存在だった。両親にイタズラした時は祖父がかばってくれた。どこに行くにも僕を連れていった。祖父は1日中動物と一緒で僕は放牧にも連れていかれた。僕は幼稚園に行ってない。祖父母の家で暮らしてたんだ。本当に大切な思い出だよ。何の不安もなかったが……」

ここまで言って、事件に関しては「あまり話したくない」と言葉を詰まらせた。ただ、祖父に自身の活躍を見せられないことを残念に思っているという。

「“ルカ”は祖父の名前だ。残念だよ。何の活躍も見せられなくてね。でも、きっと空から僕を応援してくれてるし、自慢に思うはずだ」

■爆撃にさらされるスポーツ施設で練習したサッカー少年の日々

紛争中のクロアチアの都市ザダールでサッカーボールで遊ぶ少年(1994年11月撮影)
紛争中のクロアチアの都市ザダールでサッカーボールで遊ぶ少年(1994年11月撮影)
Colin Davey via Getty Images

このままでは命が危ない。残された家族は恐怖から逃れるため1991年12月末、約40キロ西にあるザダールに移住した。アドリア海に面した風光明媚な都市にあるホテル・コロヴァーレは、セルビア人勢力から逃れた何千人もの人の避難所となった。

この1室に、6歳のモドリッチ少年らの家族も住むことになった。ただし、ザダールも安全ではなかった。周囲をセルビア人勢力に包囲されていたため、常に砲撃や空襲の危険にさらされていた。

「当時は生きるのが大変だった。サイレンが鳴ると爆弾やミサイルが落ちてくる」とモドリッチ選手は振り返る。そんな戦時下で生きる少年がハマったのがサッカーだった。

ホテルの前にある駐車場で、2つの石をゴールポスト代わりにして友人とプレイを楽しんだ。「サッカーをすることで周りの出来事から逃げ出すことができた」という。

やがて頭角を現したモドリッチ少年は、地元クラブ「NKザダール」傘下の少年チームに加入した。『ルカ・モドリッチ 永遠に気高き魂』によると練習場となったスポーツ複合施設は、クロアチア軍の拠点としても使われていたため、セルビア人勢力による空爆の標的となっていた。

空襲警報があるたびに子どもたちは定められた避難場所まで走り、真っ先にたどりついた者がチャンピオンというゲームをしていた。それは死と隣り合わせの中で、子ども達から不安を取り除くための手段だったという。

■戦争中に育ったモドリッチ選手、ウクライナ侵攻への思いとは?

モドリッチ選手が10歳になった1995年、クロアチア政府はセルビア人勢力と和平協定に調印。ついに同地に平和が訪れた。

ただ、世界での紛争は今も続いている。今回のカタールW杯が行われている最中も、ロシア軍はウクライナへの攻撃を止めておらず、これまでに多くの死傷者が出ている。モドリッチ選手も自身の経験を振り返り、ウクライナ侵攻の開始から3日後の2月27日、以下のように思いを込めてツイートしていた。

「戦争中に育った私は、あんな体験を誰にもして欲しくないと願っています。罪のない人々が死ぬというナンセンスを止めなくてはいけません。私たちは平和に暮らしたいんです。戦争反対」

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