難民「たとえ収容されても母国には帰れない」その意味を考えたことがありますか?

6月20日は世界難民の日。東京・高田馬場にある「難民が営むレストラン」に、足を運んだ。
タンスエさん
タンスエさん
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6月20日は世界難民の日。

日本にたどり着いた難民をめぐって、入国管理局の外国人収容所で、病気の収容者に対して医療行為が行われなかったり、自殺者が出たりと、人権侵害の問題が相次いで指摘されている

世界難民の日を前に、日本で暮らす難民の人々は、現状にどのような思いを持っているのか。

東京・高田馬場にある「難民が営むレストラン」へと、足を運んだ。

「リトル・ヤンゴン」の小さなミャンマーレストラン

高田馬場駅の近く、賑やかな飲食店が軒を連ねる「さかえ通り」。実はこの通り、ミャンマーレストランが多いことから通称「リトル・ヤンゴン」と呼ばれている。

そんな「リトル・ヤンゴン」に一軒の小さなレストランがある。店の名前は「Swe Myanmar(スィゥ・ミャンマー)」。店主のタンスエさんと妻のタンタンさんが明るい笑顔で出迎えてくれた。

 実はミャンマー料理で一般的に使われる調味料・ナンプラーが大の苦手な私。「ナンプラーを使っていないメニューはありますか」と申し訳なく尋ねると、タンスエさんが混ぜご飯に鶏肉を乗せた料理「ダンパオ」をおすすめしてくれた。

鶏肉がほろほろと柔らかく、優しい味。

「どう、美味しい?食べれた?」。タスエさんの優しい笑顔に、また絶対足を運ぼうと誓った。

タンスエさんは、ミャンマーの軍事独裁政権から逃れてきた難民だ。今はこの街で、妻と娘・息子の家族4人で暮らす。日本にやってきて、まもなく30年が経とうとしている。

ダンパオ
ダンパオ
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軍事独裁政権から逃げて…

1989年12月、凍えるような寒さの夜だった。タンスエさんが日本にやってきて約1週間。持参した1000ドルは底をつき、住む場所も食べる物もなかった。

「これで駄目だったら国に戻るしかない」。日本で働いているという、名前だけ知っているミャンマー人に助けを求め、彼の家の前で明け方まで体を震わせながら待ち続けた。

ミャンマーでは1962年、軍によるクーデターが勃発し、軍事独裁政権が誕生した。その後、たとえ家族や友人の間でも、政権を批判するような発言をすれば密告・逮捕されるような時代が続いた。

1988年、若者を中心に、自由を求める民主化運動が起こった。当時大学の教員をしていたタンスエさんもこの運動に参加。しかし政府は運動を激しく弾圧し、参加した人は次々と牢獄に入れられた。

 「このままでは自分も捕まる」。身の危険を感じたタンスエさんは、海外に逃げる決意をした。

当時ミャンマーのパスポートで渡航できる国はわずかで、たまたま日本大使館に勤めていた友人の協力で、日本のビザを取得することができた。

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明け方の3時くらいだっただろうか。訪ねて待っていたミャンマー人が帰ってきた。残業で帰りがこんな時間になってしまったのだという。

藁にもすがる思いで事情を話すと、外国人専用の宿泊所と日雇いの仕事を紹介してもらうことができた。宿泊所でベッドに入った夜、日本に来てから初めて、安心して眠りについた。

日雇いで働き始めてしばらくたったある日、日雇い先の建築会社の社長と話す機会があった。この出会いが、先の見えなかったタンスエさんの生活を救う。

社長はタンスエさんの身の上話を聞くと、自分の会社で雇うことを決め、借家を用意してくれた。その上、タンスエさんが妻・タンタンさんを日本に呼び寄せる際の身元保証人にもなってくれた。

「自分は本当にラッキーだと思う」。タンスエさんはそう話す。

 タンスエさん夫婦は1997年に難民として認められた。2010年には、ミャンマーで軍事政権が終わりを迎えたことから、一家で母国に戻ろうとした。しかし、希望は叶わなかった。依然として身の危険があることがわかり、直前で帰還を断念をせざる得なかったのだ。

このときすでに以前の勤め先を退職してしまっていたため、生計を立てるためにレストランを開くことにした。それが「スィゥ・ミャンマー」だ。

タンスエさん(左)・タンタンさん(右)
タンスエさん(左)・タンタンさん(右)
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「嘘難民」と言われた悲しみと日本への感謝

日本では2018年、1万493人の難民申請があったが、認定されたのはわずか42人(0.4%)。先進国の中でも、最低レベルの認定率だ。

「君たちは難民じゃない。嘘をついて、働くために日本に来たんでしょう」。タンスエさんは、難民申請をしたときに入管の担当者からそう言われたことが忘れられない。

難民とはそもそも、政治的な迫害や武力紛争、人権侵害などを逃れるために他国に庇護を求める人々。申請者が本当に難民かどうかの審査が難しいのも事実だ。

タンスエさんは「難民ではないが、豊かな日本で暮らしたいために難民申請をする人もいる」と理解をしつつも、「帰りたくても帰れない」自分の状況をなかなか理解してもらえなかったことに傷付いたという。

「ミャンマーに帰っても私は『ブラックリスト』です。捕まる可能性は高いし、誰も自分とは関わろうとしない。社会から隔離される存在なんです」と難民の現実を語る。

「難民認定されないと、母国に帰るしかない。帰らなければ入管に収容されます。収容所で数年過ごして、それでもやっぱり母国に帰るより収容所にいたいと願う人がいるんです。その意味わかりますか…?」タンスエさんは言う。

それが意味することとはつまり、母国ではそれより酷い運命が待ち受けていることだ。

「入管は、彼らが帰りたがらない『意味』をもう少し理解してもいいんじゃないかと思うんです」タンスエさんは、難民認定のハードルを下げるべきだと話す。

 一方で、「今、家族と共に安心して暮らせていること」は日本のお陰だと感謝する。見ず知らずの外国人の自分を救ってくれた建築会社の社長や、難民申請に尽力してくれた弁護士など、多くの日本人に助けられここまできた。

気づけば人生の半分以上を日本で暮らすタンスエさん。それでも母国・ミャンマーに対する想いは変わらない。いつかミャンマーに戻り、国の自由と発展に貢献したいと願う。

「この30年間ずっとミャンマーの自由のために闘ってきました」。

難民として辛く悔しい経験も沢山したが、母国の自由のために人生を捧げてきたことに悔いはない。

タンスエさん
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認定NPO法人難民支援協会の見解では、現在日本に暮らす難民は約7500人。その他にも、難民認定の結果を待っている難民申請者が約3万人いる。

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