アートとカルチャー
2020年12月08日 18時10分 JST | 更新 2020年12月09日 14時41分 JST

魔法を失った大人たちに『おジャ魔女どれみ』20周年映画がめっちゃ刺さる

【加藤藍子のコレを推したい、第3回】映画『魔女見習いをさがして』で主人公たちが置かれている状況は、大人なら多かれ少なかれ経験した覚えがあるようなものだ。

「子どもの頃、ほんまに魔法があるんじゃあ思いよった」
「空も飛べるって信じてた」
「どうしてあんなに、夢を見ることができたんだろう」

11月に公開されたアニメ映画『魔女見習いをさがして』は、3人の女性のこんなモノローグから始まる。

ソラ(22歳)は教員志望の学生だが、実習で子どもたちに要領よく接することができず、自信喪失中。大手商社に勤めるミレ(27歳)は、上司から「空気が読めない」と理不尽な批判を受け、情熱を注いできたプロジェクトの担当から外されてしまう。フリーターをしながら絵画修復士になる夢を追うレイカ(19歳)は、金をせびってくる不誠実な恋人との関係を断ち切れない。

実はこの映画は、1999年から4年にわたりテレビ放送され、一世を風靡した子ども向けアニメシリーズ『おジャ魔女どれみ』(以下、『どれみ』)の誕生20周年を記念して製作された。『どれみ』は、個性の異なる小学生の女の子たちが、ひょんなことから「魔女見習い」になり、一人前の魔女を目指して修行を重ねる物語だ。

だが、今回の映画の主人公はどれみたちではない。そこに居るのは、大人になる過程で「魔法を失った」と感じている私たち自身である。

 

映画の前にまず、もとになった『どれみ』という作品について説明しておきたい。主人公の少女どれみ、そしてその仲間たちが教えてくれた最も大切なメッセージは、魔法とは「選ばれた者しか持てない特殊な力」ではなく、「私たち一人ひとりが持っている力」だということだ。

魔法といえば、ホウキで空を飛んだり、杖のひと振りで別人に変身できたりする特殊能力を連想する人がほとんどだから、意外に感じられるかもしれない。同作でも実際、そういう種類の魔法をどれみたちが試行錯誤しながら身に付けていくさまが楽しく、魅力的に描かれていた。ただそれは、いってみれば美味しいキャンディをより美味しく見せる、キラキラ輝く包み紙のようなものだった。

同作が本質的に描こうとしていたのは、どれみたちと、家族やクラスメイトなど周囲の人々とが触れ合いながら成長していく過程だ。私たちは、生まれ持った性質も、置かれた境遇も、一人ひとり異なるからこそ完全に理解し合うことは難しい。でも、どれみは、その違いを面白がったり、「素敵だな」と思うことができたりする女の子だった。

例えば、嘘をつく癖があって煙たがられている友だちに対しても、不登校になった友だちに対しても、ネガティブに受け取られがちなその一側面だけを見てジャッジすることを、決してしなかった。

否定せず、排除せず、一緒にいる。そうすることで、相手の知らなかった一面が見えてきたり、欠点と映っていた個性が長所に見えてきたりする。『どれみ』は、そんな人間の可能性を、魔女のそれとは違うもう一つの素敵な「魔法」として描いていた。

※以下の部分ではアニメシリーズと映画の物語の結末に触れているため、ご覧になってから読むことをお勧めします。

Aiko Kato / HuffPost Japan
魔女見習いをさがして

だからアニメシリーズのラストで、どれみたちは魔女になることを選ばない。

「私たちは、最高の魔法を既に持っている。だからきっと、どこにだって行けるし、なりたい私になれるんだ」――。『どれみ』を観た子どもたちは、言語化はできていなかったとしても、そんな希望を抱いたに違いない。

20年の時を経た今回の映画『魔女見習いをさがして』は、そんな子どもたちの「その後」を描いているのだ。

ソラ、ミレ、レイカの3人が置かれている状況は、大人なら多かれ少なかれ経験した覚えがあるようなもので、映画を観ていると私自身、大人になることと魔法を使えなくなることはイコールであるように感じられた。

大人が子どもと大きく異なるのは、かつての教室の中のように「肩書なし」の個人ではいられないことだ。

教師の卵、大企業社員、フリーター。それが確信を持って選択した場所なのか、いつのまにか流れ着いた場所なのかは人にもよるが、社会の中で課された「役割」にふさわしい働きができているかどうかで日々ジャッジされる。だから、個性という名の魔法なんて、どうしたって見えにくくなっていくのだ。

ただ、この映画は私たちを絶望させるためにつくられたわけではない。物語が進むに連れて、「大人になっても魔法は使える」という希望を伝えているのだと気付いた。

魔法を信じられなくなった私たちへの処方箋として示されるのは、「好きなものを通してつながること」だ。

3人は職業も年齢も、住む場所もバラバラだが、『どれみ』が好きという一点で引き合わせられ、意気投合する。仕事や学業などで日々「役割」を果たし続ける一方で、岐阜、京都、奈良など『どれみ』ゆかりの地を連れ立って「聖地巡礼」。時間をかけて旅行をしながら、語り合い、時にはぶつかり合い、互いについてより深く知っていく。

いわば「聖地巡礼」というイベントが、『どれみ』における「学校の教室」のような役目を果たしているのだ。

最終盤、月明かりの夜に3人が集まり、互いの「魔法だと思うところ」を伝え合うシーンは最も象徴的だ。それぞれの手には、どれみたちが魔法を使うときに用いていた「魔法玉」をかたどったおもちゃが握られている。

教師にしては要領が悪いとされてしまいがちなソラの一面は、他の2人から見れば「自分だけでなく、他人のこともとことん考えられる優しさ」に変わる。大企業の若手社員としては生意気だと批判されるミレの一面は「意見をはっきり主張できるかっこよさ」に変わる。レイカはいつもどこか自信がなさそうだけれど、ソラとミレはそれを駄目なところだとは思わない。「絵を描く才能」を2人からまっすぐに褒められたことで、レイカは自分の夢をよりはっきりと見据えられるようになっていく。

かざしたそれぞれの玉が月光に照らされ、魔法の光が宿ったように映るそのシーンは、3人の中に変わらずあった魔法が、再び発動したことを示している。「私は無力で、どこにも行けない」と思い込んでいた彼女たちは、自分の力を生かせる場所を求めて、それぞれが今いる場所から一歩踏み出す選択をする。

魔法を取り戻すためには、「かけがえのない個」としてもう一度結びつける場所を見つけられさえすればよかったのだ。

この映画は、かつて魔法に魅せられ、希望を胸に独り立ちし、今まさに傷ついて孤独を感じているすべての女の子のための物語だった。傷は完全に癒えることはなくて、もう私たちはまっさらな希望にあふれた「魔法少女」のような心ではいられない。だけど、魔法を再び見つけ出す力までもは失われていない。

どれみたちはきっとこの先も、そのことを思い出させ続けてくれるだろう。

新型ウイルスが、想像もしなかった速度で社会を動かした2020年。生活のあり方、仕事のやり方、人との関わり方。すべてを変えざるを得なかった。人と人との間の隔たりが、否応なく広がったことが一因で起きたように映る悲しいニュースも、後を絶たなかった。

この厳しい現実に対して、為すすべもなく防戦一方の自分の無力さに疲れている。

『魔女見習いをさがして』は、そんな暗たんとした気持ちに温かい光を灯してくれるような、希望の映画だった。

また、友だちと気兼ねなく会ったり、旅をしたりして、好きなものについて思い切り語り合える日が来てほしい。そんな祈りで胸がいっぱいになった。

(取材・文:加藤藍子@aikowork521 編集:泉谷由梨子@IzutaniYuriko