鬼はいる。私たちの隣りに、この社会の内側に。映画『鬼滅の刃』煉獄杏寿郎が伝えたこと

【加藤藍子のコレを推したい、第2回】鬼滅の刃が大ヒットした原因はコロナだけではない。人間を終わりのない競争へと駆り立てる現代の資本主義社会を映しているからだ。

悔しい。悔し過ぎる。

2020年10月16日に公開された映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』。一人観た後の帰り道、私は赤ん坊みたいにワーワーと泣きだしそうなのを必死でこらえながら歩いた。マスクで顔が隠れていて本当によかった。

※本記事は物語の結末に触れているため、映画をご覧になってから読むことをお勧めします。

映画「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」のポスター=都内で撮影
映画「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」のポスター=都内で撮影
Aiko Kato / HuffPost Japan

■『鬼滅の刃』のあらすじ

舞台は大正時代の日本。主人公の少年・竈門炭治郎は、鬼に大切な家族を惨殺され、ただ一人生き残った妹の禰豆子も鬼にされてしまう。炭治郎は妹を人間に戻すため、鬼を倒す組織「鬼殺隊」へ入隊。仲間といくつもの死闘を乗り越えていく。

この映画で最もまぶしく輝くのは、階級制をとる鬼殺隊で最高位の「柱」と呼ばれる剣士の一人、煉獄杏寿郎だ。強く、優しく、温かい。戦隊モノでいえば押しも押されもしない「レッド」。的確な采配で炭治郎たちを導き、乗客200人の汽車を乗っ取った凶悪な鬼の討伐に成功する。

だが、最終盤。突如現れる鬼側の幹部的存在・猗窩座(あかざ)によって、煉獄は命を落とす。「柱」が3人がかりで対峙しても勝てるかどうか分からない、ほぼ無敵の鬼。煉獄は一人で立ち向かい、前の戦いで重傷を負った炭治郎たちを守り切る。

原作のファンだ。煉獄が大好きだった。だから、この場面も何度読み返したか分からない。それなのに、映画でその戦闘を見守りながら、思わず「勝てる」と信じた。当然、結末が変わるわけもなく、煉獄は死んだ。二度、三度と鑑賞しても同じこと。私は「勝てる」と信じ、窮地で涙ぐみながら「相討ちでもいい」と祈り、それでも必ず煉獄は死んだ。憎い猗窩座は逃げ去った。

「仲間と一緒に鬼退治。少年漫画の王道じゃん。分かりやすいから売れるんだよ」。この社会現象と化したヒット作品を語るとき、知たり顔でそう評す人もいる。

じゃあ、なんで「レッド」が真っ先に死ぬんだよ。

原作にはまだまだ先がある。物語の半分にも到達していないのに。炭治郎たちと任務を共にするのだって、これが初めてなのに。

でも、考えて考えて、思い直した。そうじゃない。この戦いで、やはり煉獄は負けなければならなかった。なぜか。彼はきっと、「鬼の論理」と「人の論理」が異なることを明確に示してみせる大役を負わされていたからだ。

「勝ち」に執着して泣いた私の中にこそ、鬼がいる。少し唐突に聞こえるかもしれないが、この資本主義社会で生きていると、必然的にそうなる。

改めて問おう。煉獄は、なぜ死んだのか。それは「鬼になれ」と強いられるこの社会で、私たちが「人として在り続ける方法」を示すためだ。

原作の漫画「鬼滅の刃」
原作の漫画「鬼滅の刃」
HuffPost Japan

まず、『鬼滅の刃』の世界の前提を押さえておこう。重要なのは、敵の鬼たちがかつては人であったことだ。

例えば、他人から才能のなさを馬鹿にされ続け、自分を見失った青年。歩くこともままならないほど病弱に生まれたせいで、孤独を抱えた子ども……。虐げられ、ただ人として生きていくことさえままならない世界に絶望した末に、鬼になった者は多い。

原作ではやがて、映画に登場する猗窩座にも、悲しい過去があったことが明らかになる。

それでもこの物語では、鬼は徹底して「滅するべきもの」として位置付けられている。鬼は人間を喰らうからだ。「自分はこんなにつらい思いをした」「世界はこんなにひどい場所なんだ」――そんな絶望やニヒリズムに絡めとられて、まっすぐに生きていこうとする人間をぐちゃぐちゃに破壊するからだ。

鬼はいる。私たちの隣りに、この社会の内側に。人の形をしている対象に「人でなしだ」というのはためらわれる部分もあるが、「自分の悲しみのために人を攻撃したり、壊したりする怪物」を鬼と呼ぶならば、それに当たる存在が脳裏に浮かぶ人は多いのではないだろうか。

個人的な経験を語らせてもらえば、以前私が身を置いていたマスコミ業界では、理解しがたいことに、何人もの部下の心を壊してまわっているような中年社員を度々目にした。男の形をしていた者も、女の形をしていた者もいた。

飲み会などで話す機会があると、彼らは決まって、彼ら自身がそれまでに長時間労働やハラスメントに苦しんできたことを、「頑張ってきた思い出」として語った。「自分がされて嫌なことは、他の人にしてはいけない」と、人生の一番初めで教え込まれるような気がするのだけれど、彼らはなぜか「嫌なのに耐えてきたのだから、他の皆も耐えるべきだ」と言う。「文句は結果を出してから言え」と馬鹿にして、自分の横暴ぶりを正当化する。

作中で猗窩座が、重傷で動けない炭治郎を守る煉獄に「弱い人間が大嫌いだ。弱者を見ると虫唾が走る」と語る場面がある。その薄笑いをみると、私はどうしても「ヒッ、ヒッ」と引きつるような感じで笑っていたあの中年社員たちを思い出してしまう。

その中には仕事で「結果」を出している、猗窩座のように「強い」人たちもいた。でも、生身の人間を「成果」を出すための存在としてしか見られなくなって、それゆえに人を傷つけても何とも思わなくなって、せっかく手に入れた強さを、自分がいい思いをする以外の何に使うべきかも分からなくなっている時点で、全員ひっくるめてすごく弱いんじゃないのかなあ、と思うのだ。

ajijchan via Getty Images

猗窩座は煉獄の実力を察すると「お前も鬼にならないか」と誘う。猗窩座にとっては「強くなること」自体が目的化しているからだ。傷つきやすく、すぐに老いて死んでしまう人間の肉体をまとっていては「至高の領域」にはいけないと迫る。つまり、「人でなしになって、一緒にマウンティングゲームしようぜ」と誘っているのである。

それに対して、「俺は如何なる理由があろうとも鬼にならない」と言い切るのが煉獄だ。鬼にならなければいよいよ死ぬという状況に追い込まれても、一瞬も迷わず拒む。その信念の原点にあるのは、幼少期、余命わずかな病床の母親から授けられた言葉だ。

「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか」

「弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません」

本作がつくづくうまくできていると思うのは、この言葉を授けるのが父ではなく、母であるということだ。

強き者は、弱き者を守れ――。元「柱」の父が仮にこれを言ったなら、おそらく「鬼より強くなれ」という意味合いを帯びてしまったことだろう。しかし、本作でその父は、鍛錬を尽くしても「大したことはなかった自分」に失望したのか、酒を飲んで自堕落な隠居生活を送っているという設定だ。

一方、母は、剣を振るわなくとも、強く、優しく生きた人として描かれている。彼女は煉獄に「強くあれ」と言うが、同時に、自己保存だけを目的化する「鬼のような強さ」には意味がない、と戒めているのだ。

それを受け継いだ煉獄は、決して弱さを否定しない。つまずいた人がいれば、そこに当たり前に手を差し伸べられる人間の可能性を諦めない。

その姿が、なぜこんなにも多くの人の心を打つのか。煉獄が命をかけてその正義を全うしようとする瞬間、私たちは炭治郎と一緒に「煉獄さん、煉獄さん」とその名を呼びながら涙してしまう。それはおそらく私たちが、常に「鬼にならないか」と誘われるような日々を生きているからだろう。

この資本主義社会は、人間を終わりのない競争へと駆り立てる仕組みだ。傷ついたり失ったりしたくないなら変化に適応しろ、生産性を上げろ、限界を超えろ。他人はどうでもいいから、自分のスペックを上げることに集中しろ。まるで「鬼になれ」と言われているようなものだ。

その仕組みに適応した成功者たちはまた、「こうすれば勝てる」というノウハウを発信する。「どちらが勝ち組か」というくだらないマウンティングゲームの中で怯えながら、私たちはともすれば「人として善く生きることの価値」を忘れそうになる。

この空虚なゲームから自由になるのは、簡単なことではない。「善くあること」と「鬼のような強さを手にすること」を比べたら、私たちは短期的には後者に惹かれてしまうからだ。

それを、私は煉獄に「何としても勝ってほしい」と念じている自分の中にも見た。気が付いたら、「今ここで猗窩座を叩き潰して、煉獄さんの正しさを証明してもらわなければ」と思っていた。

この気持ちの奥底には「結果を出せないなら、『善くあること』などただの綺麗ごとになってしまう」という「鬼の論理」が潜んではいないか。気づいたとき、背筋がスッと冷えた。

煉獄が死ななければならなかったのは、私たちが既に内面化してしまっている「鬼の論理」を、根底から否定するためだ。

「己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ」

煉獄は、最期にそう言い残す。炭治郎たちは、その言葉を胸に刻み、幾多の修羅場を鬼に堕ちることなく、乗り越えていく。

「煉獄さんは負けてない!」――ラストシーンで泣き叫ぶ炭治郎の声は、逃げる猗窩座の耳には負け惜しみにしか聞こえていなかっただろう。だが、煉獄が体現した「善の力」は、彼が倒れても消えない。他の「柱」や炭治郎たちに受け継がれることで時間を超え、より大きな力となっていく。

煉獄はその死をもって、一人の貫いた「善」が、広がり、連なり、世界を変えていくことの可能性を示した。今の世界に最も必要な希望のメッセージを届けた。私たちが「鬼のような強さ」を欲望するだけの存在に堕落しない限り、煉獄は死んでも、負けないのだ。

(取材・文:加藤藍子@aikowork521 編集:泉谷由梨子@IzutaniYuriko

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