アートとカルチャー
2021年02月02日 11時22分 JST

手塚治虫『きりひと讃歌』「神様」が描き切った受難と救済

文章でも、映画でも、不可能。本作は、マンガ表現の強みを「神様」が駆使した傑作中の傑作だ。

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手塚治虫『きりひと讃歌』は「モンモウ病」という架空の奇病を巡るミステリーだが……

「一番のお気に入りの手塚作品はどれか」

マンガ好きならこんな話題で盛り上がったことがあるだろう。

『ブラック・ジャック』『火の鳥』『ブッダ』『どろろ』『奇子』『三つ目がとおる』『シュマリ』『ばるぼら』『アドルフに告ぐ』――。

今、本棚に並んでいる作品をざっと挙げただけでも、どれを選ぶか迷う。短編集や『人間ども集まれ!』といった異色作も捨てがたい。少し上の世代なら、『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』を子ども時代の宝物だったと特別視する人もいるだろう。

改めて考えれば、たった1人のマンガ家のベスト作候補がこんなにあること自体が驚くべきことだ。

当コラムの最終回にあたって、この広大な手塚ワールドから無理やり一作を選んでご紹介したい。

取りあげるのは10代の頃から何度も読み返してきた名作『きりひと讃歌』だ。

 

奇病『モンモウ病』を巡るドラマ

『きりひと讃歌』と出会ったのは高校3年生のときだった。ある日、社会科教師が「手塚治虫の最高傑作は何か」という脱線をはじめ、

「『火の鳥』『ブッダ』あたりが定番だが、私のベストは『きりひと讃歌』だ」

と紹介してくれたのがきっかけだった。

小学校のころから『ブラック・ジャック』を愛読し、近所の図書館にそろっていた『手塚治虫漫画全集』(講談社)でかなりの数の作品を読んではいたが、『きりひと讃歌』は未読だった。

図書館で借りて最初に読んだときの興奮と衝撃は忘れがたい。

 『きりひと讃歌』は、それまで読んだマンガや、映画、小説など他分野の作品とは違った形で、私の深い部分を揺さぶった。いくつかのカットは初読で脳裏に焼き付き、再読を重ねた今ではほぼ全編を脳内再生できる。

なぜこの作品にここまで惹きつけられるのか。まず、あらすじを短くまとめておく。

主軸となるのは「モンモウ病」という架空の奇病を巡るミステリーだ。

徳島県の犬神沢村周辺に症例が集中するこの難病は、短期間で骨格が変形して体毛が濃くなり、患者は犬のような容貌に変わってしまう。生肉を激しく求める嗜好の変化も伴い、あたかも人間が獣に変わってしまうような症状をみせる。激しい頭痛が続き、最後には呼吸困難に陥って命を落とす。

主人公の青年医師・小山内桐人は、モンモウ病の研究者であるM大附属病院の竜ヶ浦教授の指示で犬神沢村に赴く。現地調査を続けるうち、小山内自らがモンモウ病を発症する。現地で深い仲になった村人たづを伴った脱出行が不運を呼び寄せ、婚約者の吉永いずみや親友の占部など多様なキャラクターを巻き込みつつ、国境を超えたドラマが展開される。

モンモウ病についての「風土病説vs.伝染病説」の論争と、日本医師会会長の座を狙う竜ヶ浦の策謀が駆動する形でストーリーは進み、「医学や医師のあるべき姿とは」という問いかけが繰り返されるこの作品は一見、社会派医療ドラマといった趣が強い。

 

「幼いキリスト」のもじり

だが、それは『きりひと讃歌』の魅力の一面でしかない。単なる社会派や医療マンガという切り口で見た場合、私は本作をそれほど高く評価しない。むしろストーリー展開やディテールには粗が目立つ。

たとえば竜ヶ浦の陰謀はリスクとのバランスで動機付けがやや弱いし、婚約者いずみは占部との関係性を含めて不可解かつ不自然な人物造形となっている。モンモウ病を巡るミステリーも、それだけで長編を引っ張れるほどの題材ではない。

そんな粗さを残しつつも、なお『きりひと讃歌』が名作たりえているゆえんは、人間の受難と救済を描く神話的、宗教的な力強い筆致にある。

手塚治虫の公式サイトによれば、小山内桐人は「幼いキリスト」のもじりだという。モンモウ病を患った白人女性ヘレン・フリーズが公開の場に立つシーンで聖書の引用と十字架を運ぶキリストの姿が挿入されるなど、キリスト教的要素が随所でみられる。

受難と救済は『火の鳥』など手塚作品に通底するテーマだ。『きりひと讃歌』の凄みはそこに人間の狂気を触媒として介在させているところにある。

小山内は権力闘争と名誉欲に狂った竜ヶ浦の陰謀で犬神沢村に送り込まれ、「馳走」として客人に生娘を差し出す村の狂った奇習によって妻たづと出会う。それでも心を通わせるようになった2人は、刹那的なならず者の凶行で引き裂かれ、小山内はさらに台湾の富豪たちの常軌を逸した饗宴の見世物にまで身を落とす。その後も人間の欲や偏見による理不尽な運命に苛まれる。

南アフリカの修道女ヘレンは、白人と教会の名誉を守るという歪んだ価値観から、修道院の院長に危うく殺されかける。難を逃れた後には、主治医であり窮地からヘレンを救ったはずの占部の狂気によって、さらに苦難へと追い込まれる。

犬のような姿かたちになったこと、小山内のセリフを借りれば、「人間が犬になりさがった」ことが、周囲の人間の狂気を掻き立て、2人のモンモウ病患者を翻弄する。病そのものよりも、正気を失った人々や社会が、2人を追い詰める。

この構図を裏返せば、病という異物が、人間や社会の病理をあぶりだしていくのだ。
新型コロナウイルスのパンデミックを生きる現在の我々にとって、この「病と人間社会」の倒置した描写は切迫したメッセージになっている。

狂気というファクターから見て、主役級の重要性を持つのが占部だ。長年の友人のフィアンセをレイプし、患者であるヘレンとも強引に関係を持つ占部の言動は異常そのもので、しかもそれを本人も自覚している。

それでいてこの占部は、作中でもっとも強い「実在感」を放つ登場人物でもある。占部が徐々に狂気の度合いを強めていく過程の描写は分厚く、真に迫る見事なものだ。不可解なはずの占部の心理に読み手をシンクロさせる手際には唸るしかない。

 

文章でも、映画でも、不可能

この占部の狂気の描写を子細に見ると、本作がマンガだからこそ成立した傑作なのが分かる。

占部がヘレンを襲う場面では交歓する神々の彫像や仏像を配した表現が強烈な印象を残す。直接の性描写では表現できない狂気とプリミティブな暴力性を浮かび上がらせ、同時にこのエピソードに宗教的側面を持たせる効果もあげている。

こんな離れ業は、文章でも、映画でも、不可能だろう。語りすぎても見せすぎても伝えられない、マンガならではの絶妙のバランスだ。

台湾から中東への小山内の逃避行をともにする麗花も、マンガだからこそ成立するキャラクターだ。「人間テンプラ」という芸自体が荒唐無稽なもののはずなのに、その最期はリアリティにあふれ、一度読んだら忘れられないシーンになっている。

閉鎖的な犬神沢村の空気感。

モンモウ病の進行度合いが一目で分かる顔貌の描写。

読者を決して迷子にしない遠景・近景を使い分けた巧みなコマ割り。

見せ場に配置された宗教画のような一枚絵。

『きりひと讃歌』はマンガ表現の強みを「神様」が駆使した傑作中の傑作だ。

本作について「ストーリー展開やディテールには粗が目立つ」と書いた。それ自体は欠点と言えなくはないが、細かな瑕疵を速いテンポが生むうねりが飲み込み、力強くメッセージ性の豊かな「静止画」の視覚表現で主題をより一層浮き上がらせる独特の力が、マンガにはある。

私は本作を読み返すたび、矛盾や不自然さを感じつつも、物語の核心に引きずり込まれる感覚を覚える。

 

生涯のテーマは「生と死」

物語の核心とは無論、小山内とヘレンの受難と救済である。

小山内は異国の僻地で医師として、ヘレンは風土病に苦しむスラム街の介護者として、それぞれ生きる道をみつける。

奇病と人間の狂気に巻き込まれた2人が、病に苦しむ人々を癒すことを通じて、自らの魂を救う道を見出す。

こう書いてしまえば、物語は綺麗なラストに収斂したように思えるかもしれない。

だが、2人が語り合う最後の場面で示されるように、小山内の負った心の傷は深く、心境は諦めや達観に近い。身に宿した占部の子の出産を前に「犬の子が産まれる」と恐怖するヘレンも、なお苦悩のなかにある。

カタルシスも結論めいたものもなく結末を迎える物語を前に、読者は「救済とは何か」「それはそもそも手が届くものなのか」という問いに向き合わされる。

最後に手塚作品全般についての私の考えを記して稿を閉じる。

とても1人の人間が手掛けたとは思えないほど幅広い題材を描きながら、手塚マンガの世界にはそれぞれ強いリアリティがある。SFや神話的要素が強い作品でも、作品世界にしっかりと根を張った人間が描かれる。『火の鳥』に登場する異星の生物やロボットですら、例外ではない。

それは手塚治虫という作家が、マンガの中の「箱庭」ではなく、現実の社会に生きる人間の姿と向き合い続けたからだと私は考える。秋田文庫版『ブラック・ジャック』第1巻の解説で、悦子夫人は手塚の生涯のテーマは「生と死」だったと表現している。それはすなわち「人間そのもの」と言い換えられるだろう。

美しさと醜さを併せ持つ人間の姿を、手塚は描き続けた。

安っぽいヒューマニズムにとどまらない、現実とつながる手触りをもった名作をこれほど多く残せたのは、戦争体験や経営者としての苦境などの人生経験に加え、作家の内部に膨大な蓄積があったからだ。

超人的な量の仕事を抱えながら、手塚は映画や読書などを通じて膨大なインプットを怠らず、若い作家たちに「マンガからマンガを学ぶな」と説いた。

手塚は、ゼロから今日ある形のマンガを生み出したわけではなく、先人や同時代の偉大なクリエイターから学びながら、「巨人の肩」に乗ってストーリーマンガというジャンルを築き上げた。

手塚という作家とその作品群は、戦争と復興、その後の高度成長に至る激動の時代に、史上屈指の才能が天職を得たことで生まれた。それは、ひとつの芸術分野で世紀に一度起きるか起きないか、というレベルの僥倖だった。あるいは、そんな奇跡的幸運があったからこそ、マンガというジャンルが確立されたともいえる。

だから私は、いまだに手塚治虫を超えるマンガ家は生まれていないと考えているし、私が生きているうちに登場するとも思えない。

それを悲観する必要はない。我々の手元には「神様」が残してくれた数々の傑作があり、手塚という巨人の肩に乗って、多くの才能が花開いているのだから。

少なくとも、私が死ぬまでに「もう読みたいマンガがない」などと嘆くことはないだろう。

読むべきマンガを見逃して、うっかり死んでしまう方が、よほど心配だ。

 

高井浩章 1972年生まれ。経済記者・デスクとして20年超の経験があり、金融市場や国際ニュースなどお堅い分野が専門だが、実は自宅の本棚14本の約半分をマンガが占める。インプレス・ミシマ社の共同レーベル「しごとのわ」から出した経済青春小説『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』がヒット中。 noteの連載はこちら ツイッターアカウントはこちら

(2021年1月30日フォーサイトより転載)