植民地支配は人々から何を奪うのか──。
今年90歳を迎える在日朝鮮人2世の朴壽南(パク・スナム)さんと娘の麻衣さんが共同監督を務めたドキュメンタリー映画「よみがえる声」が8月2日より公開中だ。
壽南さんは半世紀以上にわたり、広島や長崎の朝鮮人被爆者や元「慰安婦」の女性らに取材を重ねてきた。
本作は、その貴重な証言や、戦後に起きた殺人事件で死刑となった在日朝鮮人の少年との出会いを通じて、植民地支配が朝鮮の人々に与えた癒えることのない傷と、日本の社会で差別がどう形を変えながら温存されてきたかを浮き彫りにする。
壽南さんが取材した人の多くは、すでに亡くなっている。自身も難病で視力を失った。日本の敗戦と、祖国の解放を同時に迎えてから80年。壽南さんと、10代の頃から取材に同行してきた麻衣さんの2人に話を聞いた。

「私は天皇を神と信じる皇国少女でした」
植民地支配下の1935年に日本で生まれた壽南さんは、日本の皇民化教育を受けて育った。創氏改名で「新井」と名乗り、自分の本名を書くことができず、朝鮮語で話すことも禁じられた。
「私は天皇を神と信じる皇国少女でした。学校では『日本国民の臣民であります。天皇陛下に忠義を尽します』と徹底的に暗誦させられました。5歳の頃、チマチョゴリを着た母が日本人から石を投げつけられるのを見て、朝鮮人への憎悪に耐えきれなくなり、朝鮮人であることから一度逃げ出しました。
初めて民族教育を受けたのは、1945年の解放後に朝鮮学校に通い始めてから。植民地支配の恐ろしさは、土地や文化、言葉や名前を奪うだけではなく、自分が何者であるのかという一番大事なもの、人の魂を奪うということです」(壽南)
在日1世ら同胞たちの声を記録する活動のきっかけとなったのは、1958年、東京・江戸川区の高校に通う女子生徒が殺害された「小松川事件」だった。
犯行に及んだ李珍宇(イ・ジヌ)さんは事件当時18歳で、殺人などの罪で事件から4年後に死刑が執行された。優秀な成績で中学を卒業したが、在日朝鮮人であるが故に就職を断られ、朝鮮人密集地で家族と極貧生活を送っていた。事件の背景にはその過酷な生活状況や朝鮮人差別の問題があったとして、助命請願運動が行われた。
同じ在日2世で、壽南さんは事件を自身と切り離せない問題だととらえ、助命請願運動に参加した。文通を行い本を差し入れ、面会室で朝鮮の歴史や言葉を教えた。「(日本名の)金子鎮宇ではなく、朝鮮人として目覚めた時に、自分の犯した罪がどんなに大きいものなのか考えるようになるのではないか」と考えた。
「珍宇は裁判長から一番苦しい思いをしたのはいつかと聞かれ、『家が貧しく、小さいきょうだいはいつも飢えていて、ご飯が食べられない日は、起きているとお腹が空くから水道の水を飲んで1日中寝て暮らした』と話しました。この記録を読んだ時、自分の胸が突き刺されたような気がしました」

「大震災の記憶と自分の娘の記憶が一つになっていた」
壽南さんは、李さんの助命請願運動に参加することを決めた際に、被害者の家族とも会い、交流を重ねた。本作の中で、被害者の両親との会話をこう振り返っている。
「『この辺(江戸川区)は震災の時に朝鮮人が多く殺された場所。自分のきょうだいもそれに加わった。まだ一度もお詫びしていないのに、自分の娘が事件にあったら、たくさんの朝鮮人が焼香にきたりお金を送ったりしてきた』んだって」(被害者の父との会話)
「珍宇が処刑されたことを伝えたら、『(珍宇の)お母さんに会いに行きたい』と。(家に向かうまでの)バスの中から左手に川が見える。『(虐殺で)川は血の水が流れていて真っ赤だった』と。あの人たちは大震災の記憶と自分の娘の記憶が一つになっていた──」(被害者の母との会話)
李さんの死後、壽南さんのもとに届いた遺書には、「ヌナ(姉さん)どうぞ悲しまないでください。僕は金子鎮宇として死ぬのではなく、李珍宇として死ぬのです」とつづられていた。壽南さんは2人で交わした手紙を「罪と死と愛と」と題して出版した。
壽南さんはこの事件を知った後から、朝鮮の子どもたちのために川崎市に私塾を作る活動も行っていた。 授業では、アメリカで黒人の子どもたちに「黒人は美しい」と訴えた詩人ラングストン・ヒューズの「ニグロと河」を使った。
「繁華街をうろつく子どもたちを集めて、差別に負けてはいけない、私たちは美しいのだ、決して差別されるような醜い人間ではない、差別するほうこそが本当に醜いのだと何度も教えました。
朝鮮の子どもたちは『汚い死ね』と石を投げつけられます。私もそうでした。『臣民』だと育てられたのに『朝鮮人は出ていけ』と言われる。それを言う人たちは普通の目つきじゃないんですね。人間の目じゃない。獣の目なんですよ。
子どもたちは朝鮮人であることから逃げることしか考えられませんでした。日本中が差別に染まり、生きていける場所がないから死んだ方がマシだと自殺を考えるんです。その状況は今日まで続いています。私は今でも、日本中で生きる朝鮮の子どもたちに、死んじゃ駄目だと毎日毎日伝え歩きたいです」(壽南)
母娘の衝突

壽南さんは1964年から取材を始め、100人以上に話を聞いてきた。ペンからカメラに持ち替え、85年以降、16ミリフィルムに撮り溜めてきた記録は50時間に及ぶ。フィルムの劣化が進む中、視力を失った壽南さんに代わって映像を復元し「よみがえる声」を完成させたのが、娘の麻衣さんだ。
麻衣さんは、10代の頃から壽南さんの活動に参加してきた。自身も「朝鮮人であることから一度逃げ出した」ことがあったという。
「朴という本名で小学校に通い出した時にからかわれ始めて、転校して日本名を使って日本人のふりをして、息をひそめて生きていました。
その後、差別はする側が悪いのだと自分を肯定できるようになったのは、学校では教えられなかった歴史を知ったからでした。植民地支配で、人権もなく、人の命として扱われず、国の責任も曖昧にされてきたから、戦後私の世代になっても差別が続いているんだと気づきました。
子どもの時は、家が貧しく家族が犠牲になっていると母の仕事に反発していました。ですが、歴史を知ることが生きていくために必要なのだとわかり、母と一緒に歩き出しました」(麻衣)
麻衣さんは「まずは隣人に知ってほしい」と大学や職場で上映会を開いてきたが、葛藤も大きかった。それは、本作の序盤で、麻衣さんと壽南さんが衝突する場面にも現れている。
「3世の私は、植民地の歴史を直接的には知らない世代で、日本の人に被害者の肉声を理解してもらうことの難しさを感じてきました。一方の母は、事実は事実として伝えていく、わかりやすい物語にして、わからない人に合わせてはいけないという一貫した姿勢があります。私と母のあの議論は、日本の社会で、在日朝鮮人と日本の人たちが歴史認識を共有できていない状況をどう乗り越えるかというものでした」(麻衣)
朝鮮人被爆者は社会から取り残された
壽南さんは、原爆が落とされた長崎や広島、朝鮮人が多く動員された福岡の筑豊炭鉱など、在日朝鮮人の証言を記録するため全国を訪れた。

広島に住み込みながら、原爆症に苦しみ、貧しい生活を強いられる人々を目の当たりにした。植民地支配下で、貧困を逃れるため、あるいは徴用などで日本に渡り被爆した朝鮮人は数万人とも言われるが、日韓両政府が全容を調査したことはなく、実態はわかっていない。
1990年には韓国で、原爆被爆者や元「慰安婦」の女性に会った。テレビ番組にも出演し、在日朝鮮人や日本軍「慰安婦」問題について話すと反響は大きかったという。
日本政府は、原爆被爆後に韓国に帰国した者を、被爆者援護法の対象外としてきた。在外被爆者は国を相手取って裁判を起こし、2000年代になってようやく手当を受けられるようになったが、それ以前に亡くなった人も多く、いまだ課題もある。壽南さんが韓国を訪れた90年代は、在韓被爆者への国の支援はなく、専門的な医療を受けることも難しかった。
「日本でも韓国でも、朝鮮人被爆者は社会から取り残されていました。語ることを拒否する方が多かったですよ。死ぬほど辛かった体験を話せるものか、分かってくれるはずがないという絶望がありました。
広島では、一緒に土木の仕事をするところから始めました。放射能の影響で体力を失い、働けない身体になってしまった。それでも、生きるために働くしかありません。重い石を持てず、何度もうずくまってしまう人たちを隣で見てきました。
いつしかお昼の弁当を分けていただくようになり、信頼されるようになっても、皆さん沈黙しか出てきません。そのうち、あの地獄のような記憶を、ぽつりぽつりと話してくれます。原爆が投下された瞬間のものすごい爆風、建物が倒壊し体は燃えている。どう自分が生き残ったか。そもそも、なぜ朝鮮人の自分が日本で原爆に遭わなきゃいけなかったのか。重い沈黙から言葉を引き出すことは大変なことでした」(壽南)
朝鮮半島出身の被爆者たちは社会の中で不可視化され、植民地支配と原爆被爆という二重の苦痛と差別を味わってきた。
一方で、壽南さんは「朝鮮人の強さ」も感じたという。戦後日本で朝鮮の人々がいかに民族教育を立ち上げたか。広島ではその歴史の一端を知ることになった。
「いくら原子爆弾でも、人が生きようとする意思を破壊することはできません。原爆から身一つで生き残った朝鮮の人たちが真っ先に始めたのは、子どもたちが勉強する朝鮮学校を作ることでした。
日本は植民地支配で、朝鮮人から朝鮮語を奪いました。朝鮮学校を建てた在日1世たちは『ここで自分の言葉が取り戻せなかったら、朝鮮という国は本当に奪われっぱなしになる』と話していました。自分たちの朝鮮語を奪い返す。そして、言葉から学ぶのは民族独立の心です」(壽南)
本作では、原爆ドームの前で子どもたちが踊るシーンがある。その子どもたちは、被爆した朝鮮人1世たちが作った朝鮮学校に通う、3世にあたる孫たちだという。壽南さんは「生き延びた喜びを全身で表現する、魂のこもった場面をぜひ見てほしい」と話す。

「再び闇に葬られてしまう危機感」
「よみがえる声」は世界各地の映画祭のほか韓国でも一般上映された。韓国では在日朝鮮人への関心が薄いとも言われているが、観客の8割が20〜30代で、上映後涙を流しながら壽南さんに話しかける学生もいた。
「世代が新しくなっているからこそ、今死者となってしまった人たちの声が必要とされています。若い人たちは無関心なのではなくて、教えられていないだけ。日本での上映ではそういう若い人にも出会っていきたいです。
被害者の深い悲しみや無念が溢れ出ているから『よみがえる声』は国境を越えることができたし、母が在日だったからこそ、制作に関わった日韓の人々が結束することができた。在日に生まれて良かったと心から思いました」(麻衣)
朝鮮人被爆者や徴用工、朝鮮人元軍属、元「慰安婦」の女性。壽南さんは生涯をかけて、虐げられ、黙殺されてきた当事者の経験に光を当て、「よみがえる声」は5作目のドキュメンタリー映画だ。日本の加害の歴史を問うだけではなく、壽南さんのこれまでの人生と、世代をわたる在日朝鮮人家族の歴史も伝える映画になった。
今も日本では植民地支配の歴史を歪曲・否定する言説は根強く、政治家が朝鮮人を侮辱する言葉を公然と使うなど、加害の歴史に背を向ける動きはますます加速している。
「『関東大震災の朝鮮人虐殺はなかった』『植民地支配をしたが良いこともあった』などと公言する政治家が支持を集めるようになれば、再び事実が闇に葬られてしまうのではないかという危機感は強くあります。
戦後80年だからこそ、犠牲者たちの生の声を通して事実を知ってほしいです。日本人も私たち在日も韓国人も、対立した歴史を共に克服するには、互いに起きた事実を知ることからしか始められません。日韓関係も、国家間の問題としてだけではなく、一人一人が事実を知ることから関係を作っていくことが重要だと思います」(麻衣)
(取材・文=若田悠希/ハフポスト日本版)
◾️作品情報
・映画「よみがえる声」
8月2日(土)ポレポレ東中野ほか全国順次公開
監督:朴壽南、朴麻衣(共同監督)
配給:「よみがえる声」上映委員会
・映画「もうひとつのヒロシマーアリランのうた」(朴壽南第1作目・1986年)
7月31日(木)~8月15日(金)シネマ・チュプキ・タバタで公開中
連日12時15分上映開始。目や耳が不自由な人のために音声ガイド・字幕つき。9日(土)には朴壽南監督のトークあり

戦後80年を迎え、植民地支配の責任や日本の加害の歴史を否定・歪曲する言説が日本社会にあふれています。今広がる排外主義は、こうした歴史否定とも深く結びついています。ハフポスト日本版は、日本が二度と侵略戦争や植民地支配を繰り返さないため、将来世代へと教訓を引き継ごうとする人や、歴史の歪曲に抵抗する人たちの言葉と活動を紡ぐ戦後80年企画「加害の歴史否定と差別に抗う」を始めます。
