標高400~600メートルの福島県飯舘村はいま、田んぼの土が凍り付く厳寒の中だ。村の中心部に近い松塚地区の雪原になった水田に、電線を張った牧柵に囲まれた一角がある。「この雪の下に、牧草が育っている」と農家山田猛史さん(68)。広さは約2ヘククタール。東京電力福島第1原発事故後の全村避難指示が3月末に解除となる古里で、常識破りの試験に取り組む。除染後の水田を北海道並みに広い放牧地に変えようという計画だ。
「コメは売れない」
山田さんは2011年3月の原発事故以前、コメとタバコ、ブロッコリーの栽培と和牛の繁殖を自宅で手掛けていた。地元の行政区長を14年3月まで3期務め、村農業委員でもある。宿命的な冷害常襲の村は畜産を主産業に掲げ、223戸の農家が和牛を飼っていた。その数は村人口の約半分の3000頭といわれたが、原発事故後の全村避難指示により、同県畜産市場で競売に掛けられた。
農家の大半は身を切られる思いで牛を手放し村を離れた。が、山田さんは畜産への愛着を捨てず3頭を残し、避難先の同県中島村で牛舎を借りて新たに和牛を買い足し、生業を続けた。14年秋、飯舘村に近い福島市飯野町に牛舎を買って移り、36頭の牛たちと共に帰村を待つ日々だ。
原発事故で避難することになった時、「それまでは、後継者になって牛舎で一緒に働き始めた三男=豊さん(34)=に経営を譲渡し、農業者年金で暮らすつもりだった。しかし、人生計画が変わった。避難先で毎日こたつに当たっているわけにいかない。どこででもできる牛をやろう、と思った」と言う。
豊さんは妻、子どもとの避難先だった福島市で偶然、レストラン雑誌で京都市の大手食肉卸会社「中勢以」の記事を読み、「食肉の面から牛の勉強をしたい」と本社を訪ねて就職することができた。山田さんにも、飯舘村に帰って畜産を復活させることへの新たな希望を与えてくれた。
松塚地区がある関根松塚行政区(44世帯)には約60ヘクタールの水田が広がる。原発事故直後の11年4月上旬に村が測定した定点の放射線量(松塚神田・地上1メートル)は、8.35マイクロシーベルト毎時と他地区と同様に高レベルだったが、3年後の14年4月初めには未除染ながら1.73同まで減り、村内でも低線量の地域の1つになった。
ただ、同行政区が避難中の住民を対象に帰還後に向けた土地利用の意向調査を行ったところ、水田を利用して稲作を再び行うと答えたのは3人だけ。しかも、1枚(30アール)だけを使うという自家米作りの規模だった。花や野菜の栽培などハウスでの園芸農業をしたいという希望者は十数人いた。「水田が除染されたとしても、飯舘産のコメは風評で売れなくなる」という懸念と諦めが住民に広まっていた。
農地を荒廃させぬ方策
15年3月。松塚地区では放射性物質が付着する表土をはぎ取る除染作業が、9割以上の水田で進んでいた。環境省は除染後の水田に土壌改良材や肥料を入れて復田を後押しする方針を出したが、コメを再び作って売りたいという声は全く上がらなかった。
「案の定、あれから米価も暴落し、コメで農業復興を考えるのは不可能になった」と山田さんは振り返った。全農各県本部が農家のコメ販売委託を受けて支払う14年度産米の概算金がかつてないほど下がり、福島県浜通産のコシヒカリは前年の60キロ当たり1万1000円から6900円(中通り産は7200円)に暴落した。
全国で220万トンを超えるコメ余りが原因とされたが、「原発事故の風評が織り込まれたとしか思えない」と山田さんは語った。「水田を復旧させるには肥料でなく、熟成した堆肥をすき込む土作りが5~10年必要と農家は知っているが、村には堆肥を作るのに必要な牛はもう1頭もいない」。住環境と農地の除染計画が進む中、農家の実情を知らぬ環境省との村民のギャップは広がるばかりだった。「水田放牧」と山田さんが呼ぶ構想が固まったのは、このころだ。
当時、「避難指示解除と帰村が現実的になるのは2年後(17年春)か。村民は新たな生き方を迫られるが、確実なのは利用されない水田、遊休農地が大規模に生まれること」というのが山田さんの見方だった。区長を退任した後は行政区の復興部長となり、「農地を荒廃させずにどう活用するか」が地元の復興の成否が懸かる一番の課題だった。
「水田放牧」は、既に1枚当たり30アールの広さに区画整理が成されている松塚地区の水田を縦横につなげ、仕切りの境となっている「あぜ」を取り払い、面積をできるだけ広げて牧草を育てる。北海道並みの広い牧野にして牛を放牧し、稲作を失う地域の農業を、ハウス園芸と両輪で再生させようという構想だ。阿武隈山地の山懐の飯舘村では段々状の水田が多いが、松塚地区の平坦な地形は放牧地の絶好の条件という。
「避難指示の解除、帰村から1年後には、村内の営農再開が宣言されるだろう。それを目標に自分の水田を種地とし、希望する住民から水田を借り受けて広げ、まず50頭から放牧を始めたい」。地域の住民が主体となった復興の先駆けに、と構想は膨らんだ。
難題は「あぜ」の撤去
その実現には、しかし、文字通りの障壁があった。広い牧野づくりの邪魔になる「あぜ」が、コメの生産手段となる部分ではないために、農林水産省から「農地の一部」とは見なされておらず、当然ながら、農地除染を担当する環境省からも「除染の対象」とされていないことだった。
「土には1万ベクレル前後の放射性物質が残り、牛が土をなめたり、生えた草を食べる恐れがある。放牧する牛の移動の妨げにもなる」と山田さん。汚染されたあぜを撤去することは、環境省の除染マニュアルも想定していなかった。
山田さんは「水田放牧」構想を村に提案し、除染担当の環境省福島環境再生事務所にあぜの撤去を掛け合ったが、らちは明かず、15年10月、除染が終わった自らの水田で実験を敢行した。地区内の放射線量測定など環境面から関根松塚行政区を支援しているNPO法人「ふくしま再生の会」(田尾陽一理事長)、東京大福島復興農業工学会議の協力を得て、除染されていないあぜ(幅60センチ)を実際に小型ショベルカーで削り、あぜに沿って、水が地下に浸透しない粘土層に達する深さ1.3メートルまで掘った溝に埋め、掘り上げて出た未汚染の土で厚く覆う――という実験だった。
メンバーの溝口勝東京大教授(土壌物理学)らによる事後測定調査の結果、あぜの土を埋めた跡から放射線は全く外に漏れず、周辺の環境に影響が出ないことが確かめられた。村も構想の後押しに乗り出した。
《東京電力福島第1原発事故後の避難指示の解除が来年3月末に迫る福島県飯舘村で、作り手がいなくなる水田を牛の放牧地に活用する試験の準備が始まった。発案者の農業山田猛史さん(67)が重機のレバーを握り、放牧地づくりの支障になる水田のあぜの撤去作業に励んでいる。
試験は日本草地畜産種子協会の補助を受け、福島県畜産研究所と村が支援している。試験地は、関根松塚地区にある自身の水田。国の除染(表土除去)が終わった1枚30アールの水田を東西に6枚連ねた区画を用い、うち3枚であぜ(1本の延長100メートル)を取り払う。》
実験を踏まえた方法で、あぜの撤去に動き出した山田さんの記事が載ったのは16年7月20日の河北新報。新たな復興策として福島県が「水田放牧」構想に注目し、同県畜産研究所との共同試験として実現が決まったのだ。山田さんはあぜの撤去後、試験地の水田を耕運し、牛の堆肥を運んで散布し、16年10月に牧草の種をまいた(県畜産研究所はあぜを撤去しない部分も残し、雑草を牛に食べさせないように除草シートをかぶせる方法の効果も調査する)。
「和牛の村」復活へ
山田さんは同年10月末から11月初め、ふくしま再生の会のメンバーと共に試験地の周囲約600メートルに、イノシシの侵入防止も兼ねて電気を通す牧柵を設置した。試験地には一面、長さ3センチほどに生えた牧草の淡い緑が広がった。農家たちが何世代にもわたって肥やしてきた土を除染ではぎ取られ、山砂を客土され、見渡す限り砂漠のようになった飯舘村の水田に、ようやく芽生えた希望の芽のように見えた。
試験が本格的に始まるのは、牧草が十分に伸びる17年5月。山田さんは福島市の避難先の牛舎から6頭を運び、試験地で放牧する。「除染を終えた水田の土に、万が一、放射性物質が残る可能性もあり、そこに伸びた牧草から牛への移行の有無を、1年掛けて継続調査していく。安全性が確かめられれば、被災地の有効な農業再生策として提案していく」と、現場で山田さんと一緒に作業をした畜産研究所職員は語った。
その続報が同紙に載ったのは、年が明けた17年2月3日。写真には、雪景色の自宅前に立って語る山田さんの姿がある。
《東京電力福島第1原発事故の避難指示が3月末に解除される福島県飯舘村で、松塚地区の畜産農家山田猛史さん(68)が今年、自宅に80頭を飼える規模の牧舎新設を計画している。除染後の水田を放牧地に変える試験にも今春から取り組み、「和牛の村」復興に向けて本格的に歩み出す。
新たな牧舎は、村が山田さんの計画を受け、国に復興加速化交付金による建設を申請中。実現すれば1200平方メートルもの広さで、最大80頭ほどを飼える。》
山田さんは早くも「水田放牧」試験の先を準備している。松塚地区では3月末の避難指示解除後、農家7戸が花栽培を始める予定で、既に試験地の隣に大型の複合ハウスが立った。
「今年、放牧試験を成功させれば、来年から本格的に地元に戻っての畜産を始めたい。そのために農家仲間の水田を借りて放牧地を広げたい」。話も進んで、計10ヘクタール近くを借りられる見通しがついたという。そこにも今春、緑肥になる菜の花類を育てて土にすき込み、牧草をまいて安全性を検査した上で、来年から放牧する和牛を増やすつもりだ。
昨年3月には三男・豊さんが避難先の京都市から家族と共に福島市に戻り、山田さんから経営を移譲された新世代の担い手として牛舎で一緒に働いている。豊さんは、食肉販売会社で就業した知見を生かして、父親たちの世代が営んできた和牛繁殖にとどまらず、良質な和牛の肥育から肉の販売までを一貫して手掛けたい、という新たな将来を描く。
山田さんは「それまで自分も、あと10年は頑張りたい。飯舘村に水田放牧の方式を広げて、避難先の後継者たちが夢を持って帰還できるように道を開けたらいい」と意気込む。
寺島英弥
河北新報編集委員。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。東北の人と暮らし、文化、歴史などをテーマに連載や地域キャンペーン企画に長く携わる。「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
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(2017年2月14日フォーサイトより転載)