今年3月31日、東京電力福島第1原子力発電所事故から6年を経て避難指示が解除された、福島県飯舘村。だが現在、環境省の除染が行われた計1260ヘクタールの水田は、土色の荒野が広がったままで、実りの秋という言葉も情景もなくなったかのようだ。「飯舘のコメは風評で売れない」と大半の農家が諦める中、稲作を再開するのはわずか8人で、開拓者の孤独を背負う。
隣の南相馬市でも、風評への懸念から、農家たちは牛、豚の飼料米作りで収入を保つ。「消費者に食べてもらうコメを再び作らねば復興と言えない」と悔しさを語りつつ、新たな生き方を模索している。
長雨と低温の夏
東北には今年、夏は来なかった。仙台管区気象台は7月22日から連続36日間という史上最長の長雨を観測。戦前の「東北大凶作」があった1934(昭和9)年の記録(35日間)を超えた。9月に入っても、日照不足と低温は続いた。
「哀れ、貧故の自殺」「涙と共に出かせぐ女性群」「お辨當なき児童 岩手縣下に八千名」「東北の地に雪訪れて 飢寒に泣く窮民」――これらは1934年の秋から冬、『河北新報』が報じた東北大凶作記事の見出しだ。その3年前、宮沢賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ」と『雨ニモマケズ』に記した時代の再来こそないが、9月28日に訪ねた飯舘村は雨空の下、肌寒く荒涼としていた。避難指示解除から半年を過ぎても各集落に人影はなく、除染作業で土をはぎ取られた沿道の農地に「出来秋」の色はない。
飯舘村役場から車で10分ほどの、里山に囲まれた八和木地区の小盆地では、緑色のカバーをかぶった除染土の袋の山が、かなりの広さの水田に居座っている。それらは搬出の見通しも立っていない。緑色の山の周縁をなぞるように進むと、鮮やかな黄色が目に飛び込んできた。目指す高野靖夫さん(63)の水田だ。今年、計1.6ヘクタールのコメ作りをしていると聞いた。
村に帰還する住民の中には、「口に入るものでなく、花を栽培し出荷する」という新たな営農を目指す人が比較的多く、政府の復興支援による無償貸与のハウスが建ち始めた。いまだ厳しい風評を避けるための現実的選択だが、筆者はあえてコメ作りに挑む人の思いを聞きたかった。
「ひとめぼれ」の黄色い稲穂は、数日来の雨を含んで重く垂れ下がり、水田いっぱいに乱れ模様を描いていた。
「まだ倒伏はしないが、万が一にも田んぼの泥に、除染で取り残した放射性物質が混じっていないとも限らない。普通に刈り取りできれば大丈夫だと確信しているけれど」
青い作業着の高野さんは、地元の水田で「再開元年」となるコメ作りに神経を配っていた。7枚の水田にはぐるりと電気柵が張り廻らされている。「電流が通っているから気をつけて。イノシシよけだよ。避難中にイノシシが増えて、電気柵がないと全部荒らされる」。
「コメを作れる」と確信
原発事故が起きた翌々月の2011年5月半ば、八和木地区の人々は全住民避難を前に「お別れ会」を開き、それぞれの避難先へと別れた。高野さんは妻の笑子さん(57)と共に、福島市のアパートを経て一戸建ての借り上げ住宅で暮らしてきた。もともと和牛50頭を飼い、繁殖と肥育を手掛けながら、栽培受託を含めて水田4.4ヘクタールで「ひとめぼれ」を作っていた高野さん。無人になった飯舘村で、農林水産省が2011年6月から水田の除染実験(汚染土のはぎ取り)とコメの実証栽培を始めると聞き、参加を希望した。
「先はどうなるか分からないけれど、やってみたいと役場に伝えたら、OKをもらった。動かないではいられなかった」。ほうれん草を作っていたハウスで田植え用の苗を育て、自宅の水田7アールを使って、つくば市にある同省の農業研究機関と協働した。
実証試験は3年にわたった。高野さんはほかにも同村小宮地区や帰還困難区域の長泥地区、役場に近い伊丹沢地区でも、引き受け手のいない実証試験のコメ栽培に取り組んだ。
「やっぱり、やってみないと分からなかった。八和木の自宅の田んぼでは、最初の年こそ収穫後の玄米で17~22ベクレル(1キロ当たりの放射性物質)ほど出たが、3年目には白米がゼロ(検出限界値未満)になった。3年間やって、飯舘村で再びコメを作れると確信した」
開拓者の困難を背負い
避難指示解除後の初めてのコメ作りは、しかし、開拓者のような困難を背負うことになった。
除染作業では、放射性物質の混じった表土を厚さ5センチほどはぎ取った後、山砂を客土(他所から土を搬入)。村内の水田は見渡す限り無味乾燥な砂漠状態になった。農家たちから「これで農業を再開しろというのか」と苦情が上がり、農水省は急きょ「地力回復工事」という1年がかりの農地再生の工程を追加した。
放射性物質の吸収抑制効果もある、カリを含めた基本肥料をすき込んだが、高野さんはプロの農家として、この作業を「やってもやらなくても影響がない」役所仕事と見る。高野さんは代わりに、牛のたい肥を村外で買い求めて、土づくりから始めた。
さらなる問題は、除染作業の後遺症だ。農家は代々、滋味豊かで軟らかい耕土をはぐくんできたが、それを根こそぎはぎ取られた上、その下の耕盤層を重機の作業で踏み固められた。
「一番の問題は『水平』が失われたこと。水田の土は真っ平でないと、均等に稲を育てられない。去年秋、村からレーザーレベラー(均平作業車)も借りてならし、水を入れ、念入りに代かきをしたが、それでも平でなく、管理が難しかった」と、高野さんは言う。
八和木地区(26戸)は放射線量が比較的低く、除染と地力回復の工事は順調に終わった。帰還の意向を持つ住民が多く、集落ぐるみの共同作業も「おととしから復活した。避難先から集まり、春と夏、水田に引く水路の泥上げ、草刈りをやってきた。側溝はイノシシが餌を掘って崩し、埋まった所が多い。今年コメ作りを再開したのは自分だけだから、水源の堰(せき)のそばの水田を借り、下に流して水浸しにしないように気を遣った」(高野さん)。
ただ、水田の水管理と稲刈り前の乾燥に必要な暗渠(地下の排水調整管)も除染作業の重機に壊され、改修の時期は未定だ。高野さんを取材したこの日も、水田は雨でぬかるんでいた。
風評との厳しい闘い
収穫するコメは全量、食料米として郡山市の流通業者に買い上げてもらう予定だ。試験栽培で協働し、飯舘村を支援してきた農水省関係者が縁をつないでくれた。支援がなければ、避難指示解除間もない飯舘村産のコメがすぐに市場に「売れる」のは難しかったかもしれない。
東北の農家にとって苦々しい経験だったのは、3年前、主要銘柄米の米価(60キロ当たり概算金)が軒並み3割前後も下落した「2014年産米ショック」だ。当時20万トンを超えた市場のコメ余りを反映した価格だったのだが、特に福島県浜通りの「コシヒカリ」は4200円も暴落。作れば赤字の米価で、被災地ではコメによる農業復興がほとんど不可能になった。
「原発事故の風評が織り込まれた」と飯舘村の農家の多くが憤ったが、やがて諦めの中で営農再開意欲を失った。ところが東北の2017年産米は様変わりしたように値上がりした。農水省が補助を行う飼料米の栽培が増えてコメ余りが緩和されたうえ、外食産業の需要も高まったからだ。福島のコメはやっと暴落分を取りもどしたが、他県は一歩先んじて、高値のコメで競争している。
地元以外の流通現場では、大半が「福島県産」ではなく「国産米」で出回る。放射性物質で同県独自の厳しい全袋検査が継続され、安全が証明されて味も良いのに、「風評」が市場で固定化され、安く、おいしく、便利なコメと扱われているからだ。
「風評とは何か、原発事故以来の経験を通じて、みんな学んできたはずだ。試験栽培をしていた時、コメを農水省の人たちに試食してもらおうと、東京に持参しておにぎりを作ったら、喜んで食べてくれた。だが、放射能の講習会が村の飯野出張所(福島市内の仮役場)であり、村民の参加者に『安全が実証された飯舘のコメ』として袋に入れて配ったところ、帰りに捨てていった人たちがいた。復興しなきゃならない地元の人が理解してくれない。親戚に話を聞くと、『村に戻れたとしても、あそこで作られたコメなんて、食べる気がしない』と言われた。それが本音なのかと思いつつ、それでも自分のコメを作ってきた」
こんな高野さんの言葉には、「除染後」という未知の農環境と、村民にも根強い「風評」への諦めに挑む開拓者の決意があった。「飯舘村産」を掲げて出荷する日はまだまだ遠いとしても。
「青米」の混じる収穫
10月6日、飯舘村の東に接する南相馬市の原町区下太田。合併前の旧太田村時代から変わらず水田の広がる農村部で、福島第1原発事故では南側の一部が小高地区とともに警戒区域(原発から20キロ圏)に入り、事故直後は自主避難も含めて大半の住民が地元を離れた。
その後、復興のために農家の有志グループがコメの試験栽培や、コメに代わる作物の栽培実験に挑んできた。今は、油を搾って利用する菜種の畑が年々増えている。だが原発事故を境に、風評や長期のブランクからコメ作りをやめる住民も多い。
そんな中、農業再生を目指す7人の有志が今年2月、農事組合法人「あいアグリ太田」=代表・大和田英臣さん(63)=を結成した。「耕作放棄地が増える恐れがあり、その委託も受けながら、太田の復興の基盤である農地を集落ぐるみの営農で守る。その担い手もつくり、将来は地域の人も雇用する」と語るのは、メンバーの奥村健郞さん(60)だ。
今年、「あいアグリ太田」が請け負ったのは下太田地区の農家20戸の水田、計30ヘクタール。作付けの大半は福島県の奨励品種「天のつぶ」で、ほかに餅米も1.7ヘクタール栽培した。
ここでも倒伏寸前の稲が多く、見渡す限りの水田に、黄色の渦巻き模様が広がっていた。刈り取り作業も終盤だというこの日は、雨の晴れ間。翌日からまた雨模様の予報が出ており、奥村さんらは収穫を急ごうと、大型のコンバイン3台を投入。刈り取った稲を自動脱穀して籾だけを内部に蓄え、いっぱいになると、水田の端に止めたトラックの荷台に吐き出してまた刈り取りを始める、という作業を繰り返していた。
「東北農政局は(9月)29日、東北6県の2017年産水稲の作柄概況(15日現在)を発表した。東北の作況指数は100(前年同期比2ポイント減)で、『平年並み』(99~101)の見通し。夏の日照不足と低温の影響で、10アール当たりの予想収量は565キロとなり、前年同期比で11キロ減る見込みだ」(9月30日付『河北新報』)
記録的な長雨と低温にもかかわらず、作況予想は「平年並み」。奥村さんのコンバインをトラックで待っていた仲間の1人は、「『平年並み』なんてこと、あるかい」と、いまいましそうに話した。
「出来は全然だめ。実(もみ)が膨らんでいないもの。稲は例年7月末から8月10日に開花し、受粉するが、今年は雨と低温にぶつかり、その時期に花が咲かなかった。太陽に当たったのは8月末の2日ほどで、登熟(出穂後の成熟)する暇がなかった」
コンバインがトラックに近づき、脱穀したもみをはき出す太いパイプを荷台に伸ばした。荷台によじ登って、うずたかくたまっていくもみを見た。黄緑色をした未成熟の「青米」が目立つ。焦げ茶に変色し、ほとんど空っぽのもみと合わせると、全体の2割ほどを占めている印象だった。運転席を降りてきた奥村さんもあきらめ顔だった。「これでは10アールから8俵(480キロ)がいいところ。収量は平年の9割。直播(直まき)した所に影響が大きかった」。
牛、豚の飼料米になる現実
直播とは、もみをそのまま水田にまく方法のこと。コメ作りの主流は田植えだが、苗をハウスで育てたり、農協から買ったりするのはコストが高くつく。震災・原発事故後の人手不足もあり、米価の安さで他地域に比べハンデのある浜通りで、稲作を再開した農家に直播は広まっている。
だが、既に体が出来上がった苗の強さに比べ、種から遅れて育つ直播の稲の場合、同じ時期に遭遇した低温への抵抗力は弱かった。これは今年、浜通りの直播のコメ作りに共通の課題だった。
「でも、青米であっても虫食い米であっても、等級には関係なく売れるんだ。飼料米だから」と奥村さんは言う。「あいアグリ太田」で今年作った「天のつぶ」は全量、牛や豚の飼料米として地元農協に売られる。
「炊いた後の食味は『コシヒカリ』に引けを取らない」(奥村さん)という「天のつぶ」は、福島県農業試験場(現・福島県農業総合センター)が約15年かけて開発し、原発事故の前年に県の奨励品種になった。稲の丈が低く、倒れにくく、いもち病に強いという特徴もある。主力の独自品種が不在だった同県の期待は大きく、原発事故があった2011年は販売初年度に当たり、「天のつぶ」は「復興のシンボル」の役目を担うはずだった。が、その始まりから不運に見舞われた。
「天のつぶの試食会は(同年)11月30日、東京都のホテルで卸業者や流通業者を招いて開かれるはずだった。しかし、基準値超えのコメが続出し、県と地元農協組織でつくる主催者の『ふくしま米需要拡大推進協議会』は『安全性の面で問題が出てきている』と延期を決めた」(2011年12月3日付『河北新報』)
2011年の同県産米から、国の暫定基準値を超す放射性セシウムが相次いで検出され、新しいコメを市場にデビューさせるどころの話ではなくなってしまった。福島と名の付くすべてが「風評」という厳しい試練にさらされることになり、同県産米は前例のない出荷前の全袋検査を、現在も義務づけられている。
米価の暴落、消費地の拒否感が重なった陰で、流通市場では同県産米が匿名の「国産米」として取引され、皮肉にも「安全で安く、うまいコメ」との評価で業務米(コンビニのおにぎり、弁当、外食店のご飯など)に定着することになった。
飼料米もまた、同県が農水省の飼料米増産方針に新たな活路を求めた結果と言えた。コメ余りや、輸入依存だった飼料の国際価格高騰を背景に、コメを国内向けの飼料自給に利用する策で、生産者には最大で10アール当たり10万5000円もの補助金を出している。食用米を作った場合に近い収入を確保できる、という特典である。
篤農家の屈辱と誇り
南相馬市は原発事故後、市内でのコメ作付けを全面自粛したが、2014年、前年の実証栽培解禁に続いて本格的な「作付け再開」を宣言した。しかし、被災地産米への根強い風評などから再開を希望する農家は少なく、市と地元農協は全量を飼料米として販売し、収入を確保する施策で協働。以来、同市内で栽培されるコメの大半が飼料米として出荷されている(南相馬市によると、今年の市内の作付面積は原発事故前の約4割の2200ヘクタールで、8割が飼料米)。
太田地区では原発事故の翌年、奥村さんら農家有志が新潟大学や福島大学の研究者と組み、いち早く再開に向けた試験栽培に取り組んだ。だが2013年産米に、福島第1原発から飛来した粉じんが原因とみられる「基準値超え」が検出された。それを証拠立てる研究者らの測定結果も複数あったが、農水省は翌年に「原因は不明」と幕引きしてしまい、厳しい風評だけが地元に残るという苦い経験をしてきた。この痛手も、多くの農家に農業再開を諦めさせることになった。
「もともとここでは『コシヒカリ』を作っていたんだ」と奥村さん。「あいアグリ太田」としての作付けとは別に今年、自らの水田で70アール分の「コシヒカリ」を栽培した。収穫後は自家米や縁故米に回し、ごく一部を農協に出すという。
しかし奥村さんは、「『コシヒカリ』を、売れるコメとしてもっと作りたい」と言う。国内のコメ余りは解消しつつあり、たとえ被災地支援の要素があったとしても、国が飼料米増産に巨額の補助金をいつまでも出し続ける保証はどこにもない。「国の政策など先は分からない。『いいコメ』の価値観とは違う飼料米作りに甘んじていたら、農家本来の意欲は薄れる。今は苦境を食いつなぐコメ作りだが、再び『食べるコメ』を消費者に売れるようにならなくては」(奥村さん)。篤農家としての屈辱と誇りが、声となった。
浜通りのコシヒカリ復活を
この日、トラックでの搬送役を担っていた「あいアグリ太田」代表の大和田英臣さんも、その思いは同じだった。
大和田さんがコメ作りを再開したのは2016年。それまでは水田を借りての菜種栽培に、奥村さんら農家有志と結成した組織「南相馬農地再生協議会」の一員として取り組んできた。「下太田では来年から、圃場整備(水田の区画拡大や水利改良などの工事)が始まる。完成したら、『あいアグリ』のメンバーに計55ヘクタールが配分される。工事の間は飼料米を作っていくが、新しい農業の土台ができれば、私たちは食用米作りを広げるつもりだ」。
しかし、先行きの懸念はやはり、対策の見つからない「風評」にあった。
「消費地での物産展では、福島のコメにお客さんが寄ってきてくれる。だが、その場限りで、販売につなげられないでいる。私たちは『コシヒカリ』を復活させ、『あいアグリ』としての自主販売を開拓していこうと話し合っている。その目標を実現できなくては、将来に至る農業経営も、この地域の復興も、浜通りのコメの復活もないんだ」(大和田さん)
大和田さんは近隣の農家仲間と有機米栽培のグループをつくり、自ら顧客を開拓した。だがその後に残ったのは、苦い思いだ。「震災、原発事故が起こると、すぐに心配する電話を遠方からもらったが、『当分、コメ作りをやれない』とお断りすると、客はたちまちゼロになった」。どうすればいいのか。それは「あいアグリ太田」を、交流の場としても育てていくことだ、と大和田さんは考える。
太田地区には、夏の伝統行事として名高い「相馬野馬追」(国指定重要無形民俗文化財)の出陣の地の1つ、相馬太田神社がある。野馬追を伝承した相馬地方の旧領主・相馬氏は、平将門の末裔の戦国大名だ。毎年7月末の祭日の朝には、青々と苗が伸びた水田の一本道を、騎馬武者たちが参集してくる。下太田の人々も祭りを盛り上げ、地元の復興の支えにしてきた。「ここに多くの人を迎え、コメが育つ風景を見せたい」。その日を仲間と夢見ている。
寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
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