日産自動車による出資額2370億円のM&A(買収・合併)によって瞬く間に収束した感のある、三菱自動車の燃費データ不正問題。しかし、5月12日の記者会見で、日産社長兼最高経営責任者(CEO)のカルロス・ゴーン(62)と握手した際の三菱自会長兼CEO、益子修(67)の笑顔に釈然としない思いを抱いた関係者は少なくない。リコール(回収・無償修理)隠しや大型トレーラーのタイヤ脱輪による母子3人死傷事故などが引き起こした過去の危機では、支援の手を差し伸べた三菱「御三家」(三菱重工業、三菱商事、三菱東京UFJ銀行)さえ、今回は「3度目はない」と見放した。そんな自動車メーカーが救済されたことを、主力工場を抱える自治体や政府は両手を挙げて歓迎しているが、果たしてこんな腐りきった会社を救う価値があったのか。
「(日産は)支援はするが、あくまで株主であり、(三菱自には)自主的な経営をしてもらう」
記者会見で違和感があったコメントはいくつかあったが、ゴーンによるこの「自主的経営」発言は最たるものだった。モラルに欠ける企業体質を改善できなかった三菱自会長の益子と社長の相川哲郎(62)の辞任は誰もが不可避と見ていたし、確かに相川はこの会見から6日後の18日に辞任を発表したものの、2005年の社長就任以来11年間会社を率いてきたCEOの益子は、「現職にとどまり、課題解決に取り組む」と表明。ゴーンの発した「自主的経営」のフレーズが益子の続投を示唆していたことは、12日の会見の際の両者の笑顔を見ればたやすく想像がついた。
「内向き」体質の土壌
「人の命を預かる自動車を作る資格のない会社」――。これは12年前、パジェロ、ギャラン、ランサー、ミラージュなど三菱自のほぼ全車種で合計約16万台のリコール隠しが発覚した際、ユーザーたちから投げかけられた言葉の1つだ。その発言者の中には、2002年に同社製トラックのクラッチ系統の欠陥による事故で部下の運転手が亡くなった運送会社の社長も含まれていた。
2000年と2004年に発覚したリコール隠しが会社ぐるみだったことは、同社のクレーム対応の仕組みが雄弁に物語っていた。2000年当時、三菱自は年間数万件に達するユーザーからのクレームに01~04の管理番号をつけて4種類に分類。01、02、03はオープンにしていたが、約半数を占めていた04については、品質保証部の担当者が「H」の印を押し、社内でも秘匿していた。
「H」は「秘密」や「保留」の意味とされた。厄介なクレームの内容を上層部に知らせたら機嫌を損ねる、というのが「秘密」にした最大の動機だった。本来なら運輸省(現国土交通省)への報告義務があっただけでなく、自社の生産部門や開発部門にフィードバックされるべき重大なクレーム情報が、「上司に怒られたくない」という極めて「内向き」の理由のために「H」専用のロッカーに隔離されていたのである。部門間の人事交流がなく、組織が「タコ壷化」していたことが「内向き」体質の土壌となっていた。
2000年7月に最初のリコール隠しが明らかになった際、当時の社長、河添克彦は記者会見で、「クレームの原因が特定できないまま開示すれば、当該箇所を製造した部品メーカーを倒産に追い込む恐れもある」と釈明。だが、「消費者よりも身内を大事にするのか」と記者に問われると黙り込んでしまう一幕もあった。その河添は、前述の2002年に起きたトラックのクラッチ欠陥による死亡事故について元役員3人と共に業務上過失致死罪に問われ、2008年1月に横浜地裁で禁固3年(執行猶予5年)の有罪判決を受け、一時控訴したものの後に取り下げて刑が確定している。
断ち切れなかった「負の系譜」
周知のように、三菱自は最初のリコール隠しが発覚した3カ月後の2000年10月、独ダイムラー・クライスラーと資本提携。同社は今回の日産と同様34%を出資して筆頭株主となり、2002年6月にはダイムラー出身のドイツ人、ロルフ・エクロートが社長に就任し、三菱自経営者の「負の系譜」は断ち切られたかに見えた。が、2回目のリコール隠し発覚でダイムラーはあっさり撤退。2004年4月にエクロートは辞任し、同6月には三菱自生え抜きの多賀谷秀保が社長の座についた。ただ、社内外で全く無名だった多賀谷にはもとより求心力が働かず、在任期間はわずか7カ月。この短命社長の後任に指名されたのが三菱商事出身の益子だった。
2005年1月の益子の社長就任と三菱重工業会長、西岡喬の三菱自会長兼務というトップ人事の経緯は、拙稿(2009年12月号「『アイ・ミーブ』の広告塔 益子修の凄み」)に詳しいので繰り返さないが、同じ三菱グループでも他社出身の益子と西岡が率いる新体制は、当時は三菱自の「負の系譜」と一線を画していたように見えた。しかし、今にして思えば、それは錯覚だった。ダイムラー撤退で本来なら三菱自は破綻しかけていたにもかかわらず、三菱「御三家」が約6000億円を投じて救済。結局、スリーダイヤの威光で生き延びることができた三菱自の社内では、部門間の人事交流も滞ったまま「内向き」の体質が温存されてしまったのだ。
ブラックユーモア
2014年6月のトップ人事で益子が指名した後任社長は、相川哲郎。三菱重工社長、会長を歴任したグループのドン(首領)相川賢太郎(88)の長男(1999年に西岡を三菱重工社長に指名したのは、当時会長の相川賢太郎だった)ということ以上に、相川哲郎には「社長不適格」の要素があった。それは5月18日の社長辞任会見で自ら述べている通り、「不正が起きた開発部門に私は長く在籍し、その風土で育った私が社長のままだと改革の妨げになる」からだ。
「開発畑30年、『eKワゴン』などヒット商品の開発者」
これが2年前に社長に就任した際に三菱自の広報部門がマスコミに売り込んだ相川哲郎のキャリアだが、開発畑30年というのは「タコ壷化」の裏返しであり、「eKワゴン」は今回の燃費データ不正の当該車種なのである。今回の不祥事が発覚した後では、相川哲郎の社長就任はブラックユーモアとしか思えない。この人事を主導した益子が会長兼CEOの座にとどまり、「再発防止に向けた体制作りに取り組む。(社長の後任人事は)大株主である三菱重工業、三菱商事、三菱東京UFJ銀行の3社とよく相談して決めたい」と会見で発言しているのもお笑い種だ。この期に及んで益子に三菱自の体制刷新を委ねなければならないほど、三菱グループには人材がいないのだろうか。
実は満身創痍の「三菱重工」
「三菱グループの『モノ作り』が衰退している」と言われて久しい。実は、最初にその兆候が表れたのは、相川賢太郎が会長として君臨していた時代の三菱重工だった。三菱自の最初のリコール隠しが発覚する直前の2000年3月期に、三菱重工は海外プラント工事の採算悪化によって、連結最終損益が1370億円の巨額赤字に転落。翌2001年3月期も203億円の連結最終赤字が続いた。1990年代後半に会長だった相川が檄を飛ばして安値受注を推進。製造段階でコストダウンを図って利益を上げる計画だったが、その思惑は実現しなかった。「受注価格が低過ぎると誰もが思っていたのに、会長(相川)の方針に異議を唱えることができなかった」と当時の重工幹部は話していた。
無理なコストダウンは生産現場に不当なプレッシャーを及ぼす。1999年に社長に就任して相川の尻拭いをすることになった西岡は、「現場を回ってその荒廃ぶりに驚いた」と後に語っている。実際、2002年4月から7月にかけて同社名古屋航空宇宙システム製作所小牧南工場(愛知県)で航空自衛隊機の電気系統ケーブル切断事件が、さらに同年10月には長崎造船所で建造中の大型豪華客船「ダイヤモンドプリンセス」で放火と疑われる火災事故が相次ぎ発生するなど、「現場の荒廃」を彷彿とさせるような不祥事が起こっている。
こうした現場の荒廃に苦しんだ西岡が「重工の士気高揚」を目指して着手した半世紀ぶりの国産旅客機「MRJ(ミツビシ・リージョナル・ジェット)」の開発は難航し、当初2013年を目指していた1号機の機体納入は4度の延期を余儀なくされ、現在の目標は2018年にずれ込んでいる。
また、長崎造船所ではその後もトラブルが絶えず、2011年に受注した大型豪華客船「アイーダ・プリマ」など2隻の建造は、基本設計の遅れやその後の設計変更などで損失が膨らみ、受注総額1000億円に対し2300億円の赤字を出すという前代未聞のプロジェクトになった。さらに米国では、カリフォルニア州にあるサンオノフレ原発で2012年に起きた配管破損事故が、三菱重工の設計ミスに原因があるとされ、同原発を運営していた米電力大手サザン・カリフォルニア・エジソン社から75億7000万ドル(約8300億円)の損害賠償を求められている。ことほどさように現在、三菱重工は満身創痍であり、またもや破綻に瀕した三菱自に救いの手を差し伸べるどころではなかったのである。
「電機」も「ケミカル」も
凋落は三菱重工だけではない。三菱自と同じように重工から分離・独立した三菱電機でも、4年前に悪質なコンプライアンス問題が発覚している。同社は2012年12月、防衛省と宇宙航空研究開発機構(JAXA)など4機関に対し、原価の基になる工数を40年近くごまかし、374億円の「過大請求」をしていたと発表。国民の税金をかすめ取るという悪質な行為だったが、経営陣は誰1人辞任せず、当時社長(現会長)の山西健一郎らの減給処分で頬被りした。身内に甘いのはこのグループの習性なのかもしれない。
今年初め、『週刊ダイヤモンド』が「三菱最強伝説」(2016年1月30日号)と題した特集を組んで話題になったが、その論拠は、多くが国内での相対優位(つまり、三井や住友を凌駕しているという程度)だった。視野をグローバルに広げれば、それぞれの業界における競争力は甚だ心もとないものばかり。例えば、化学業界。三菱ケミカルホールディングス(HD)は昨今、会長の小林喜光(69)が名経営者の評判を取り、昨年4月に経済同友会代表幹事に就任するなど「強い会社」と思われがちだが、「グローバル市場ではマイナーリーグ」(外資系証券の化学業界担当アナリスト)というのが現状だ。
世界の化学メーカーでは昨年末、業界2位の米ダウ・ケミカルと同8位の米デュポンの経営統合が合意に達して注目を集めたが、計画通り2016年後半に統合が実現すると、両社の合計売上高(米ケミカル&エンジニアリングニュース社調べ、2014年、以下同)は881億ドル(約9兆7000億円)となり、独BASFの787億ドル(約8兆7000億円)を抜いて首位に浮上する。これに対し、三菱ケミカルは売上高263億ドルの11位。18位の住友化学や19位の三井化学よりは上位だが、中国石油化工集団(3位、売上高580億ドル)や台湾塑膠工業(台湾プラスチック、6位、371億ドル)といったアジア勢にさえ遅れをとっている。
「視野狭窄」で"井の中の蛙"に
近年、世界の化学業界では農薬・種子といった農業事業が主役に躍り出ており、ダウとデュポンの統合も焦点は「農業事業の強化」だった。昨年夏には、世界市場で種子最大手の米モンサントがスイスの農薬最大手シンジェンタ社に買収提案をしたものの、破談となり、今年2月に中国化工集団が中国企業最大のM&Aとされる430億ドル(約4兆7000億円)を投じてシンジェンタ社を買収。敗れたモンサントに対し、世界化学業界10位の独バイエル(売上高281億ドル)が買収提案をしたと5月19日に発表し、世界の化学メーカーを驚かせたばかりだ。
化学のグローバル市場を舞台にしたM&A合戦に、三菱ケミカルは音無し。経営陣は世界の潮流である農業事業ではなく、相変わらず東レや帝人との炭素繊維のシェア争いに関心が向かっている様子だ。非鉄金属とセメントの三菱マテリアルが長年の課題である「選択と集中」に手付かずと言われているのと同様に、国内市場にしか興味がない「視野狭窄」が三菱ケミカルにも垣間見える。
三菱自の「内向き」体質は決して例外ではない。「最強伝説」に胡座(あぐら)をかいている三菱グループは、多かれ少なかれ"井の中の蛙"なのである。(敬称略)
杜耕次
ジャーナリスト
(2016年5月27日フォーサイトより転載)