トランプ米大統領の"言動"により、順調に進んできた米国の金融政策に暗雲が立ち込めている。
米国では、2008年のリーマン・ショックによって発生した金融危機対策のため、日本と同様にFRB(連邦準備制度理事会)がゼロ金利政策に加え、量的緩和を実施した。2014年10月まで3度にわたって実施されたその量的緩和策により、FRBが買い入れた米国債などの資産は、量的緩和実施前の9000億ドルから約5倍の4兆5000億ドルまで膨らんだ。
その後、FRBは米国の景気回復を確認しながら、2014年1月からは資産の買い入れ額を縮小。2015年12月からはゼロ金利政策も解除し、利上げを実施した。2016年以降、現在までにFRBは3回の利上げを実施している。
そして、9月20日に行われたFOMC(連邦公開市場委員会)で、2008年から実施されていた異例の金融緩和策を正常化するための最終段階として、あまりにも膨れ上がったFRBの保有資産の縮小を開始することを決定した。
このように、金融政策の正常化に向けて順調に進んでいるように見えるFRBに、実は異変が生じ始めているのだ。
国際金融界「大物」の突如辞任
FRBは9月6日、スタンレー・フィッシャー副議長が辞表を提出し、10月13日前後に辞任すると発表した。突然の辞任は、米金融界のみならず世界の金融関係者に少なからぬ衝撃をもたらした。ただ、フィッシャー副議長はトランプ大統領に宛てた書簡では、辞任の理由を「個人的なもの」としか記していない。
フィッシャー副議長はアフリカ南部のザンビア生まれで、世界銀行のチーフエコノミスト、IMF(国際通貨基金)の筆頭副専務理事などを歴任している。2005~13年にはイスラエル中央銀行の総裁も務めた。なにしろ、マサチューセッツ工科大学(MIT)の教授時代の教え子には、米国のベン・バーナンキ前FRB議長、ローレンス・サマーズ元財務長官やマリオ・ドラギECB(欧州中央銀行)総裁などがいるのだから、その大物ぶりは明らかだろう。
2014年にFRB副議長に就任し、金融情勢分析を担当しながら、イエレン議長を支え、両輪として米国の金融政策の舵取りを担ってきた。それだけに、イエレン議長にとっても、フィッシャー副議長の辞任は大きな痛手だろう。
2018年6月の任期までまだ10カ月もあるこの時期に、なぜフィッシャー副議長は辞任することにしたのか。その要因となっているトランプ大統領の言動の"動"から見ていこう。
銀行の"やりたい放題"に
2016年の大統領選当時、トランプ氏は、オバマ政権が米金融規制改革法(ドッド・フランク法)によって強化した金融規制が金融機関の行動を制限し、経済成長に悪影響を与えているとして、同法の改革を選挙公約に掲げていた。
そしてトランプ大統領は公約通り、就任2週間後の2月3日には、金融規制の抜本的見直しを指示する大統領令に署名した。さらに6月12日、米財務省はドッド・フランク法見直しに向けた報告書を公表した。ほとんどの選挙公約が実現できていないトランプ大統領にとって、金融規制緩和は数少ない実現可能な公約となっている。
そもそもドッド・フランク法とは、リーマン・ショックによる金融危機を受け、オバマ政権時代の2010年に成立した。金融機関に対する大規模な規制の強化策で、(1)金融システムの安定を監視する金融安定監督評議会(FSOC)の設置(2)金融機関の破綻処理ルールの策定(3)銀行がリスクのある取引を行うことへの規制(ボルカー・ルール)(4)デリバティブ取引などの透明性向上――など、多岐に渡っている。要は、金融機関がいたずらに収益の増大に突っ走らないよう、様々な歯止めをかけたわけだ。
これに対して、ドッド・フランク法見直しに向けた報告書では、そうした歯止めを解除する方向でまとめられている。たとえば、金融市場で不測の事態が生じた場合に備えて、保有資産の損失の程度や損失の回避策を予めシミュレーションしておくリスク管理手法である「ストレステスト」や、厳格な資産評価を義務付ける金融機関の対象を格段に縮小する。さらには、その資産評価やストレステストそのものを簡素化させたり、自己勘定での高リスク取引を規制する「ボルカー・ルール」を完全撤廃するなど、100以上の見直しが盛り込まれた。金融機関の良識に任せた自主規制に委ねると言えば聞こえはいいが、リーマン・ショック前の"野放し状態""やりたい放題"に戻すことだという批判の声も少なくない。
あからさまな人事
こうしたトランプ政権の方針に対し、FRBはまったく逆の立場だ。たとえばフィッシャー副議長は、8月15日付『フィナンシャル・タイムズ』のインタビューで、トランプ大統領が進めているそうした金融規制の緩和に対して「信じられない」と反対の姿勢を示している。同様に、8月24~26日に米ワイオミング州ジャクソンホールで開催された「ジャクソンホール会合」では、イエレン議長が「金融危機後に導入された規制強化により、金融システムが安定した」と発言しており、FRBは金融規制緩和に明確な反対表明をしている。
このジャクソンホール会合は、毎年、米カンザスシティー連邦準備銀行が主催し、日本銀行総裁など、世界各国から中央銀行総裁・政治家・学者・エコノミストが参加し、金融関係の会合として世界中から注目されるシンポジウムだ。こうした場でのイエレン議長の発言は、いわば国際的にトランプ政権の金融政策を非難、否定したに等しい。
ところが、トランプ大統領は7月、ランダル・クオールズ氏をFRBの銀行監督担当副議長に正式に指名した。
FRBには、2つの副議長ポストがあり、1つはフィッシャー副議長が担っていた金融情勢分析担当で、もう1つが銀行監督担当副議長だが、このポストはこれまで空席となっていた。本来、このポストは、2008年の金融危機後に銀行への規制強化の流れから設置することが決定していたのだが、オバマ政権が、与野党の対立から任命のチャンスをつかめず、見送っていた。そこにトランプ大統領は、クオールズ氏を任命した。同ポストの趣旨通りであれば銀行を厳しく監視し、規制を強化するためということになるのだが、実はまったく逆。
クオールズ氏は、2005~6年のブッシュ政権下で、国内金融担当の財務次官を務めた。金融政策面では、インフレ率や経済成長率などを基に政策金利を機械的にはじき出す「テイラー・ルール」を支持しており、金融政策面では、現在のFRBの経済政策の方向性とほぼ一致している。しかし、金融規制の緩和に対しては、明確な緩和推進派なのである。背景には、同氏が現在、投資ファンドの共同経営者であることも関係しているかもしれない。
クオールズ氏のそうした姿勢に対して、フィッシャー副議長は、「極めて近視眼的で危険」と評価していた。そのフィッシャー副議長が辞表を提出した9月6日の翌日、米上院銀行委員会で、クオールズ氏の人事が承認された。あからさまなタイミングであり、まさに是が非でも金融規制の緩和を成し遂げたいトランプ大統領の「宣戦布告」とでも言えそうだ。
こうした一連の動きを見れば、金融規制緩和に動いたトランプ大統領の"動"が、フィッシャー副議長の辞任の背景にあることは明らかだろう。
人種差別問題の影響
さらに、フィッシャー副議長の辞任には、トランプ大統領の言動の"言"にも要因があると思われる。8月15日、米バージニア州シャーロッツビルで白人至上主義団体と反対派が衝突し、反対派の集団に乗用車が突っ込み、1人が死亡、19人が負傷する事件が起きた。この事件に対して、トランプ大統領は記者会見で「双方に責任がある」と述べ、白人至上主義を擁護しているとし、トランプ大統領の人種差別問題にまで発展した。
実は、フィッシャー副議長はイスラエルの市民権を獲得している。つまり、米国とイスラエル両国の市民権を持っており、2つの国籍を持っているのだ。イスラエル国籍を持つフィッシャー副議長が、白人至上主義的、人種差別傾向の強いトランプ大統領の考え方と確執が生じたとしても何ら不思議ではない。
トランプ大統領には前歴がある。2018年2月に任期を迎えるFRBのイエレン議長の後任には、トランプ政権入りしているゲーリー・コーン国家経済会議(NEC)委員長が最有力視されていた。しかし、『ウォール・ストリート・ジャーナル』は、「トランプ大統領はFRB議長にコーンNEC委員長を指名しない見通しだ」と報じた(2017年9月7日付)。同紙によると、東欧出身でユダヤ人のコーン委員長が、「シャーロッツビル事件に対するトランプ大統領の姿勢を非難したことで関係が悪化した」としている。
理事7人中5人が
かくて、フィッシャー副議長の辞任により、議長・副議長を含むFEB理事の定員7人のうち4人が空席となる。その上、金融規制の緩和に反対のFRBとは正反対の考えを持つクオールズ氏が銀行監督担当副議長に正式に就任すれば、もはやFRBは、金融規制緩和に反対という従来の姿勢を継続することすら、難しくなる可能性がある。
前述の通り、2018年2月にはイエレン議長が任期を迎える。通常、FRBの議長が1期で終わることはなく、再任されて続投するのが習わしとなっている。その点では、イエレン議長の再任の目は大いにあるのだが、悪夢は繰り返す。実は、イエレン議長もユダヤ人だ。イエレン議長がフィッシャー副議長と同様に、トランプ大統領の人種差別的な考え方に確執を持つ危機感は排除できない。
もし、イエレン議長が再任されずに、理事までも退けば、理事の7人中5人をトランプ大統領が指名することになる。慎重なまでに米国の景気回復動向を見ながら金融政策の正常化に歩みを進めるFRBにとって、2008年の金融危機を脱するために実施された金融規制強化策は、金融政策の正常化には「必要不可欠な条件」だ。トランプ大統領の意を受けたFRB理事が大半を占め、金融規制緩和が進められるようになれば、ようやく緒に就こうとしている金融政策の正常化すらおぼつかなくなる可能性もある。米国の金融政策はいままさに崩壊の瀬戸際に立たされている。
鷲尾香一 金融ジャーナリスト。金融業界紙、通信社などを経てフリーに。
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(2017年9月26日フォーサイトより転載)