夫「夏どっか旅行に行きたいね」
私「なに言ってんだおまえシャチクだろ」
こんな会話が行われていたわが家であるが、なんとも奇跡的に夫が8月に2連休をとれることになった。やっぴー!(2連休で喜ぶこと自体どうかしてる)
去年の夏は京都へ行った。
今年はどこへ行こうか。
2連休という短さと子連れということであまり遠出はできないが、それでも旅行にいけるというのはやはり嬉しい。
わが家の旅行計画アンドもろもろの手配担当はこの私である。(なぜなら夫はシャチクだから)
そして私はこの作業こそが旅行の楽しみのピークであると考えている。
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行きたい土地のガイドブックを買えば、そこからはもう楽しい旅の始まりだ。
ページをめくるごとに私は自然に囲まれた山の上でやっほーし、コバルトブルーの海できゃっきゃうふふするのである。
歴史的建造物を見ては感嘆の声をあげ、大自然の中で深呼吸をする、
はずなのだが...
実際はこうなる。
「観光より階段」の図
「おおきくなったら階段になりたい。」そう言い出すんじゃないかと親をひやひやさせるほど階段好きの娘。
彼女にとっては観光なんかするより階段の上り下りを延々とするほうが楽しいのだ。
「あたいは階段100おうふくだってできるのよ」背中でそう語る娘は他の誰よりも輝いている。
でも今じゃなくてもよくねえ?
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気を取りなおし、私はまたガイドブックを開いて今度は街の散策について思いをめぐらせる。
街をゆっくりと見て回り、気に入った店があればお邪魔する。
食べ歩きもしたいし、素敵なカッフェで休憩するのもいいだろう。
そうしてゆったりとした時間を過ごし、私の心は癒されてゆく、
はずなのだが...
実際はこうなる。
「道の真ん中でどーん!」の図
「あたいは自由に生きたいの」そう主張するかのような娘の堂々とした振る舞いに私の胸はふるえる。
いつだって大人は常識にとらわれている、そんなことを考えさせられ思わずハッとするのだ。
娘よ、思う存分大地に寝転び、大空へはばたきなさい。
でも今ここでやる必要ある?
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それはそうと、私のようなデブから言わせてもらえば、旅のメインとなるのはやはり食事である。
私はまたガイドブックのページをめくり、そこに現れたぷりぷりのお刺身やいい感じにさしの入った肉、そしてさまざまなローカルフードに舌鼓を打つのだ。
それぞれの食事をまずは目で楽しみ、香りを楽しみ、そしてゆっくりと味わい、全身で幸せをかみしめる、
はずなのだが...
実際はこうなる。
「新鮮なお魚よりマックのポテト」の図
マックのポテトは美味しい。それは認める。
定期的に食べたくなる。それも認める。
あなたがポテトを愛してやまないこともママはよく理解しているつもり。
でも今日だけはお魚にしようよ?
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私が旅行は計画してるときが楽しみのピークだと主張する理由をなんとなくお分かりいただけただろうか?
「今度はどこへ行こうか?」そう考えながらガイドブックのページをめくっているときの私はまだ夢の中にいる。
階段をひたすら上り下りすることも、食事がポテトになることもまだ知らずにいるのだ。
そして旅行当日、現実の扉が開かれたとき、「怒号」「混乱」「疲労」の中で、私は「なんのために旅行に来たんだっけ?」と自問自答するかもしれない。
しかしそれでいいのだ。別に泣いてないよ?
愛する娘の笑顔が見れれば、私はそれで満足なのだ。いや全然泣いてないからね?
マックのポテト美味し...いやほんとに泣いてなんかないんだからっっ!!!!
おしまい。
(2014年6月24日「はなこのブログ」より転載)