「反対」と「抑圧」の差

ヘイトスピーチに「反対」する、には賛成だ。

こんな記事を見かけた。

(WebRonza2016年06月08日)

ヘイトスピーチに関する議論がいろいろ起きてることは承知していたが、これまでまじめに追っかけてきたわけでもなかった。

「反対と騒ぐことが差別者を刺激してエスカレートさせる」「そっとしておけば誰も気づかないうちに終わるはず」という「寝た子を起こすな理論」がこの問題に関してあるとは寡聞にして知らなかったがどこかにあるのだろうか。ぐぐってみたものの、探し方が悪かったのか、それらしいものは(少なくとも影響力のありそうなサイトでは)見つからなかった。

まあどこかにはあるんだろうから、それはおいとくとして、上の記事でちょっと気になったことがある。ヘイトスピーチに関する「反対」と「抑圧」をいっしょくたにしてるようにみえることだ。

いま、日本においてヘイトスピーチの問題はいろいろあるのだろうが、中でも大きな問題になっているのは在日朝鮮人の方々に対するものだろう。「朝鮮人は出ていけ」みたいなひどいことばを当人たちに向かって投げつけるのはいかにもひどい話で許しがたい。それに対抗する「カウンター」と呼ばれる動きも活発に行われている。

上掲の記事も、「6月5日、在日コリアンの差別扇動を行うヘイトスピーチを繰り返していた団体が川崎市で予定していたデモが」、「ヘイトスピーチに反対する市民らが数百人で取り囲」んで「「ヘイトデモ中止」「帰れ」と叫び、路上に座り込んだ」ため進めな」くなり、警察の説得に応じてデモを中止したという経緯があって、それに対する反応について書いたものだ。

(朝日新聞2016年6月5日)

著者はこう書いている。

「反対と騒ぐことが差別者を刺激してエスカレートさせる」「そっとしておけば誰も気づかないうちに終わるはず」という〝差別扇動は放置で解決"論は、部落差別問題で「寝た子を起こすな理論」と長く呼ばれてきたものとほぼ同じと考えられるだろう。

部落差別問題における「寝た子を起こすな理論」というのは、部落差別について学校で教えたりすると、かえって消えかけていた部落差別が生きながらえたり、広まったりしてしまう、という主張だったと理解している。このことばを著者は、上記のデモ中止に対して、

「表現の自由への侵害」などと異議を申し立てる人がいる」

「さらにツイッター上では、このようにしてヘイトデモが封じ込められると差別は「地に潜るだけでますますひどくなる」といった意見も散見される」

といった反応があることを指して使っているわけだ。「寝た子」とかいってもまだ全然寝てないじゃん、というのはまあその通りだろう。部落差別問題も実際には一部地域や人々の間で根強く残っていて何かあればひょいと顔を出す、ということは知られているが、在日朝鮮人へのヘイトスピーチに関しては、一時ほどではないらしいが、それでもまだデモが行われてるぐらいだから、「寝た子」といえる状態ではなさそうだ。

なので、少なくともこの問題で、「寝た子」であるからほっとけという主張があるのなら、あまり説得力がないように思う。

とはいえ、「表現の自由を侵害するおそれがある」という主張自体が「寝た子を起こすな理論」と同種である、つまり不当な主張であるかのごとくいうのは、少しちがうのではないか。

いうまでもないが、表現の自由は無制限に何をやってもいいということではない。ものによっては刑事、民事の法的責任を問われるものもあるだろうし、そうでなくてもおおっぴらにやれば社会的批判を浴びたりするものも少なくないだろう。

これだけカウンターの人たちが集まるぐらいだし、世間全般的にみても風当りは強くなっているのではないかと思う。

2016年5月24日には、ヘイトスピーチ解消法案が衆院本会議で自民、民進などの賛成多数で可決、成立した。

いわゆる理念法で罰則はないが、差別的言動の解消に向け、国や地域社会が、教育や啓発広報、相談窓口の設置など「地域の実情に応じた施策を講ずる」よう定めている。上掲記事のデモ中止は、法案可決直後だったことも関心の高さにつながったのだろう。

全体として私たちの社会は、ヘイトスピーチをよくないものとする方向へ進んでいるといえる。こうした方向自体に文句をいうつもりはない。法が成立したことも、少なくともあの内容であれば、いいことだと思う。

しかしそれでも、デモをふくむ言論や表現の活動を、国家権力や、数をたのんだ妨害活動のような実力で抑え込むことには懸念を抱かざるを得ない。

それは、言論を力で抑え込む動きが社会の中でまかり通るようになると、それがあたりまえになって、よからぬ人たちにも使われることを危惧するからだ。数百人で取り囲んでデモを中止に追い込んだことを称賛する人たちは、自分たちのデモが数千人に取り囲まれて中止に追い込まれる事態は生じえないと思っているのだろうか。

もしそうなら、それはかなり甘い考えではないかと思う。

人々の声が、ヘイトデモ反対のような方向にだけ向かうとは限らない。

「自由、平等、博愛」を謳う某国で相次いで起きたテロの後どのような世論が巻き起こったか、そうした世論を受けて、「治安維持」のためにどれほどの人の人権が踏みにじられたか、人権の問題に関心のある人なら知らないということはなかろう。

そうした世論は、一部の過激な主張の人々が扇動したものというより(そうした面も一部にはあるだろうが)、一般の「善良」な市民の間で自然にわきおこったものとみるべきだろう。似たようなことは日本では起こりえない、と誰がいえるだろうか。

(International Business Times2015年11月21日)

(THE ELECTRONIC INTIFADA2015年1月19日)

もちろん、今回のヘイトスピーチ解消法を作った人たちは、そうした危惧を理解しているのだろう。だからこそ罰則のない理念法なのであり、ヘイトスピーチの定義も

「「専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの(以下この条において「本邦外出身者」という。)に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し又は本邦外出身者を著しく侮蔑するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動」

とかなり詳細に限定している。対策も基本的には「相談体制の整備」「教育の充実等」「啓発活動等」だ。具体的に何がどうなるのかはまだわからないが、たとえば警察の許可が必要なデモなどでは、これまでしばしば報じられてきたような露骨なヘイトスピーチを直接ぶつけるようなスタイルの活動は許可を得ることが難しくなるのだろう。

とはいえ、デモをまったく許さないということはないだろうし、そうすべきでもないと思う。「本邦外出身者を」その出自を理由として「地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動」ではない主張を、威圧的でないようなやり方で(たとえば場所を選ぶなど)表現するのであれば、それは許されるべきだ。

こういうことを書くと、ヘイトデモを容認するのかといった批判がすぐに飛んでくるわけだが、そういう藁人形論法の相手をする気はないので無視する。ヘイトスピーチ容認派の中に表現の自由を主張する者がいるということなのだろうが、十把一絡げに「表現の自由論者はヘイトスピーチ容認派だ」といわんばかりの主張をすることは、偏見に基づいたためにする議論という意味でヘイトスピーチをすることとそう変わらない。

2014年12月の最高裁判決は、ヘイトスピーチが表現の自由の範囲内であるとする在特会の主張を明確に退けた。あの事件で争われたのは、「ゴキブリ、ウジ虫」「犬の方が賢い」「キムチ臭い」「日本から叩き出せ」といった、一見して明瞭にヘイトスピーチであるとわかるものだったが、一般的には、何がヘイトスピーチにあたるかを判断することはそれほど容易ではない。裁判所の判断を仰がざるを得ないケースも多かろう。当然、時間がかかる。

(日本経済新聞2014年12月11日)

ダイレクトなヘイトスピーチが抑圧されれば、そういう主張をしたい人たちは表現を「工夫」し、規制を回避しようとするだろう。早晩、より規制を強化せよという声が出るのではないかと想像する。何か「事件」が起きて一気に世論が過激化することだってある。「言論を力で押さえこんでよい」という考え方は、容易に他へも伝播する。こうした考えが広がれば、表現活動全体が萎縮することになろう。カウンターのような人権を守ろうとする活動を規制したい人々によって逆手にとられるおそれだってある。

ヘイトスピーチに「反対」する、には賛成だ。個人的には大嫌いで、なくなってほしいと思う。しかし、だから力で「抑圧」してもいい、となるとやはり疑問を禁じ得ない。多くの人が嫌っている言論なら押しつぶしていい、という考え方が広まると、それが思わぬ方向に向かって牙をむくリスクを増大させることになる。私たちの国も、かつてそうした例が少なからずあった。戦争の時代、国民を抑圧したのは国家権力よりむしろマスメディアや周囲の目だったことを忘れてはならない。

新たに成立した法にもある通り、「更なる人権教育と人権啓発などを通じて、国民に周知を図り、その理解と協力を得つつ、不当な差別的言動の解消に向けた取組を推進」する方向で対処していくのが基本だろう。これまでカウンターの人たちは、横行するヘイトスピーチに対抗しようと努力をしてこられた。しかしその中で、暴言に近いことばを使ったりするケースもあったと聞く。もしそれが本当なら、上掲記事にあったような、数の力によるデモの抑圧も含め、目的はともかく、手段としてはやはり適切とはいえまい。

これまでヘイトスピーチを展開してきた人たちも、最近の流れを受けて、方向性を変えざるを得ないだろう(参考)。ならばカウンター活動を行ってきた側も、より「穏当」な活動にシフトしていく必要があるし、過去の活動内容についてもふりかえってみるべきではないかと思う。

例外はもちろんあるとしても、言論にはできるだけ言論で対抗すべきだ。相手を罵倒したり侮辱したりすることばではなく、節度をもったことばで根拠ある主張を戦わせるやり方であることは前提条件だろう。言論や表現を法で抑え込む部分は必要最小限にすべきであり、仮に国民の声であったとしても、力で抑圧しようとするのは不健全なやり方であると主張したい。

総じていえば表現の自由は、人権侵害を野放しにするものではなく、むしろ人権を守る方向に機能する。しかしもちろん、それは自明の話ではなく、そのように私たちが望み行動すれば、ということだ。その意味で、ここで問われているのは、主権者である私たちが、民主主義をどのように支えるかという問題なのだと思う。

(2016年6月12日「H-Yamaguchi.net」より転載)

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