羽生選手の演技が思い出させてくれた「鑑賞」という視点。

フィギュアスケート男子ショートプログラムで、羽生結弦選手が素晴らしい演技を見せ、101・45点という歴代最高得点を叩きだした。TwitterやFacebookのタイムラインを見ていても、「フィギュアのことはよくわからないけれど、あの羽生選手の演技には鳥肌が立った」という書き込みが目立つ。

本日未明に行われたフィギュアスケート男子ショートプログラムで、羽生結弦選手が素晴らしい演技を見せ、101・45点という歴代最高得点を叩きだした。TwitterやFacebookのタイムラインを見ていても、「フィギュアのことはよくわからないけれど、あの羽生選手の演技には鳥肌が立った」という書き込みが目立つ。

私自身、大学卒業後、7年間スポーツライターとして活動していた。出版社からの依頼が多かったこともあり、野球やサッカーの取材が主だったが、当時中学生だった安藤美姫選手の演技に惹かれ、フィギュアスケートの取材もするようになった。私にとっては、まったくの未知の世界。そもそも、「フィギュアやシンクロは、スポーツなのか。それとも芸術なのか」という疑問さえ抱いていた。

ところが、取材を進めていくうちに、ジャンプやスピンだけでなく、ステップなどにも細かな技術が要求されることがわかってきた。私のような素人は、どうしても「演技構成点」だけに目を向けてしまいがちだが、「技術点」で高得点を目指すために重ねる練習は、たしかにスポーツであることを感じさせた。

だが、いざフィギュアスケートの大会を取材してみると、やはり野球やサッカーなどのスポーツを取材していた時とはまるで違う感動があった。野球やサッカーは、つねにA対Bという形式で試合が行われ、多くの観客はどちらかのファンであることが多い。だから、そこでは「試合結果」が最も重要になってくる。

たとえば、Aチームがホームランを打てば、Bチームのファンは肩を落とし、Bチームが反撃に出れば、Aチームのファンは肝を冷やす。つまり、よほど日常からかけ離れたビッグプレーでも生まれないかぎり、もしくは有名選手の引退試合でもないかぎり、観客が「会場がひとつになる」という感覚を味わうことは、ほとんどない。あったとしても、本来、それは観客が望んでいたものではない。

しかし、フィギュアは違った。ドイツのドルトムントで行われた世界選手権を取材した時のことが忘れられない。もちろん、会場には誰か特定の選手を応援したくて会場に足を運んでいるファンも多くいる。そして、彼らはその選手が表彰台に上がることを強く望んでいる。だが、彼らの目的は、決してそれだけではないことに気がついた。

観客の多くは、「美しいものが見たい」という思いを抱いている。だから、自分が応援している選手ではない他国の選手の演技でも、それが素晴らしいものであれば惜しみない拍手が送られる。もっと言えば、贔屓ではない選手に対しても、「素晴らしい演技を見せてほしい」という視線が向けられる。

つまり、フィギュアスケートにおける優れた演技には、会場をひとつにする力があるのだ。これは、幼い頃から野球・サッカーの文化に慣れ親しんできた私にはとても新鮮な驚きだったし、そこには素晴らしい舞台を見終わったあとのような感動があった。これは「観戦」であり、「鑑賞」でもあると思った。

そうした意味で、今回の羽生選手の演技はまちがいなく会場をひとつにするものだったし、テレビで視聴した世界中の人々を心酔させたことだろう。開幕以来、どうしてもメダルの獲得に一喜一憂してしまう毎日だが、「応援」だけでなく「鑑賞」の視点も取り入れてみると、今回のソチ五輪をより楽しめるのではないだろうか。

(2014年2月14日「乙武洋匡オフィシャルサイト」より転載)

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