「間違った信念」から自由でいたい

「信念」という言葉を巡って、僕はいつもウロウロしている。ひとはさまざまな「信念」を持って生きている。僕から見ればかなりエキセントリックに思える「信念」を持っておられる方もたくさんおられるし、自分のなかにあった「信念」が時を経て修正されたものもある。

photo by J-Fish

 「信念」という言葉を巡って、僕はいつもウロウロしている。

 ひとはさまざまな「信念」を持って生きている。

 僕から見ればかなりエキセントリックに思える「信念」を持っておられる方もたくさんおられるし、自分のなかにあった「信念」が時を経て修正されたものもある。

 いったん人が抱いた「信念」は、変えることがとても難しい。

 どれほど科学的な証拠を突きつけられても、証拠の信頼性を疑い、かえってその「信念」が強くなってしまうことも多い。

 人生に対する哲学や仕事に対する姿勢などに関する「信念」は、なおさら変えることが難しい。

 いまの自分がその「信念」の上に立っているので、それを否定することは、自分そのものを否定することになるからだ。

 その「信念」が大きな成功をうめば、それはますます強固になる。ただし、時代は流れすべてのものは変化する。その「信念」がいつも正しいとは限らない。

 その「信念」が時代にあい、その場に求められているものにあえば、「信念」はサクセスを生むけれど、そうでない場合は、「信念」を曲げてサクセスをとるか、「信念」を貫いてサクセスを諦めるかのどちらかを選ぶしかない。

 必要な時には、あるいはそれが間違いとわかったときに、自分が抱いた「信念」を否定することができる人たちは、大きなサクセスをつかむことができる。あるいは、リーダーとして、多くの人を導くことができる。

 なぜそんなことができるのだろうと不思議に思っていたのだけど、それができる人は、もともと、自己評価が高いのではないだろうかと、最近思っている。

 自分の過ちを認めても、過去の自分の成果を踏みつぶしても先に進める人は、そのことで自分への信頼、評価が揺がないので、軽々とそれをやってみせる。

 僕のように、多少勉強はできたけれど、若いころから、自分の評価が低いもの、友人たちの間で軽んじられていると思ってきたものは、自分が学んだ「信念」に固執しがちだ。

 だって、それを自分でひとつひとつ、傷つきながら、必死で積み上げてきたのだ。

 そして、やっと自分のいる場所にたどりついたのだ。全部ひっくり返したら、また、地べたに戻ってしまうではないか。

 自分の抱いている「信念」は、自分にとっては、180度どこから見ても真実に思えるけれど、まったく真実ではない場合だってある。

 たとえば、僕がガリレオの時代に生まれて最高の教育を受けたとしたら、ガリレオの地動説をけっして信じなかっただろう。どんな証拠を突きつけられても、実験の確かさを疑い、もしそれが疑いようがないとなると、別の理論を探そうとしたに違いない。

 すべてのとは言わないが、僕らが抱く多くの「信念」は、ガリレオの時代の天動説である可能性がある。

 さて、僕は、もうかなり歳だからサクセスを希求する思いはどんどん薄まってきてはいるけれど、「間違った信念」からは自由でいたいと思っている。

 そこで、僕が自分の「信念」の真偽を再検討するときには、こう考えようと思っている。

 ひとつ。

 何もたいしたことは成し遂げなかったかもしれないけど、50数年ちゃんと生きて、子供も立派に成人させた。

 それだけでも、たいしたものだ。

 どれほど間違いを認めても、生き抜いた自分の価値は、これ以上減じない。

 もうひとつ。

 自分には、いくつかの考えの癖がある。たとえば、「常識と反すること」を面白がり好む傾向にある。さすがに陰謀論に心が揺らぐことはないが、権威筋から流される情報には懐疑の色眼鏡をかけて見る傾向にある。小さくて弱いものは清く正しく、大きくて強いものは貪欲で不誠実だと感じてしまう傾向にある。

 自分の考え方の癖を知っていれば、多少なりとも「間違った信念」から距離をおけるのではないかと思うのである。

(2014年12月22日「ICHIROYAのブログ」より転載)