僕は、超常現象や宗教的な世界観、来世や生まれ変わりなどは信じないほうだ。
しかし、おふくろにはテレバシーのようなものがあるとしか思えないことに、最近遭遇した。
もともとおふくろは、夜中に目が覚めたら天井付近に霊がさまよっていたなどという人間だったが、最近は幻覚をともなう認知症がすすんでしまって、現実と空想、過去と現在がすべてごっちゃになってしまっている。
介護施設にお世話になっているのだが、顔を見に行った時に、ときどき、ドキッとすることを言う。
「一郎、おまえ、人生に悔いはないか?」とか。
なんだよ、突然。
息子はもう50半ばなんだよ、いまさらそんなこと言うなよ。
僕の商売もよく忘れて、何の仕事をしているんだっけというので、
「きもの」と答えると
「ああ、そうやった。きものはよく売れるやろな。健康にもいいしな」
健康にいい?
美味しいとか言い出すので、ようやく、おふくろが「きもの(着物)」と「ひもの(干物)」を聞き間違えて、息子を海産物商にしていることに気がついた。
たしかに、僕は水産学科を卒業したから、途中の記憶の飛んだ状態にいたおふくろにとっては、着物商よりも干物商のほうが想像しやすかったのだろう。
ある時は、妹がたいへんやから、ちゃんと見てあげてやと言う。
あとから聞いて知ったのだが、たしかに妹がその数日前におふくろに会いに言った時、娘のことで困ったことが起きており、思い悩んでいる最中だったのだ。
そのことはあとで聞いたことで、おふくろはもちろん、僕も妻も父もまだ誰も知らなかったのだが、おふくろは老人性黄斑変性症と白内障でよく見えない目で、妹のその不幸な出来事を感知してしまっていたのである。
そんなおふくろが、この前に行った時、僕にこう言ったのだ。
「なんであんなことやったんや。会社ともめるかもしれへんのに。黙っとけばよかったのに、ほんまにあんたはアホやな。それでもやるしかなかったんやろな」
ちょうど、本が出てまだ1週間目ぐらいの時だった。
本のことはおふくろにも父にもいまだに話してはいない。
僕はあの本で、いわばパンツを脱いだと思っている。伝えたいメッセージを本気で伝えるためにはそうしなければならないと思ったからだ。
僕のことは笑われても仕方がないが、そのことで誰かに迷惑をかけるのではないかと、僕は心配で仕方がなかった。
何度も読み直し、差し障りのありそうなところは全部削り、表現を変えたりした。
しかし、本が出たあとでも、そして今でも、誰かに迷惑をかけたんではないかという思いが時々僕を苛む。
そんな気分の時に、おふくろがそう言ったのだ。
おふくろはすでに携帯も使えず、誰かに僕の本のことを聞くはずがない。
それが起こりえないという状況を説明するにはかなりの文字数が必要なので割愛するが、とにかく、おふくろが僕の本のことと、その本によって僕が思い悩んでいたことを知っているはずがなかったのである。
僕は、戦慄した。
おふくろにその意味を聞くこともせず、ぎこちなく笑って話題を変えた。
帰りの車の中で、僕は妻にしつこく訊ねた。
あの本、会社に迷惑かけたかな、会社に批判的なことは書かなかったし、誰かを傷つけるようなことも書かなかったつもりなんだけど。
どう思う?
大丈夫やと思うよ。
でもお母さん、不思議よね。
もちろん、もっとも科学的な説明は「偶然」ということになるだろう。
おふくろを訪ねていけば、過去の話やありもしない空想を数時間、聞くことになる。その数時間の話のなかから、聞き手の僕が勝手に、印象深い部分を切り取っているだけだと言えるかもしれない。
だけど、妹の時もそうだったし、今回の僕の時も、そんな話は突然で、それまでには一度も言ったことがない内容なのである。
おふくろは子供の僕や妹の心配事を、会話をしなくても、感知する能力があるのかもしれない。
いまだに信じきれない。
けれど、車椅子に座り、時にあらぬ方向を見つめているおふくろに、僕の心の奥の奥まで見抜かれているのではないかと、畏怖のようなものを感じるのである。
(2015年4月10日「ICHIROYAのブログ」より転載)