昨日は憲法記念日でした。
国会で国民投票法改正案が審議され、また集団的自衛権の議論が活発になっている中での憲法記念日。各地で様々なイベントも行われました。
私も5/1からは、街頭演説のテーマを憲法に絞って訴えてきました。僭越ながら、現在の憲法をめぐる議論についての私の見解も書いておこうと思います。
こちらは、ウィキメディア・コモンズから引用した、日本国憲法原本「御名御璽(ぎょめいぎょじ)と大臣の副署」です。
■自衛隊をきちんと定義し、誰もが誤解なく理解できる憲法を
国会における集団的自衛権の議論が加速しています。
毎日新聞の記事によると、憲法解釈変更に関する政府方針において「自衛権」とのみ記述し、自衛権には当然集団的自衛権が含まれる…と解釈して、「集団的自衛権という言葉を使わずに集団的自衛権を容認する」動きがあるようです。
明文化もせずに際限ない解釈運用を続けることは、ルールに対する「モラルハザード」を生みます。
「守られないルール」は、ルール全体としての信頼性を低下させることにつながり、 「ルールにはこう書いてあるけど、守らなくていいんでしょ? これ」という態度を蔓延させることになります。
憲法第9条のみならず、憲法全体の信頼性が低下するのです。
憲法という国家の根幹に対してモラルハザードを起こすことほど、危険なことはありません。
現行の日本国憲法の最大の問題のひとつは、自衛隊がきちんと定義されていないことです。
現在の東アジアの国際関係の緊張を考えれば、自衛隊なしでやっていけると考えるのは無邪気すぎますし、東日本大震災をはじめとした災害時の自衛隊の活躍ぶりも多くの方々が知るところでしょう。
自衛隊が今の日本に必要不可欠な存在であることは、多くの国民が認めるところだと思います。
であれば、憲法上できちんと自衛隊を定義すべきです。
それをちゃんと行わないから、「じゃあ解釈でなんとかしよう」という邪道な発想を後押ししてしまうのです。
自衛隊とはどういう組織であり、何を目的としていて、何をしてはいけないのか。
憲法上で、誤解なく誰もが理解できる形で定義することこそが「王道」です。
その議論の中で、集団的自衛権についてもしっかり議論すればよいのではないでしょうか。
■なぜ「解釈」で乗り切ろうとするのか?
そもそも安倍晋三首相は、憲法改正をこそライフワークとしていたのではなかったでしょうか。
なのになぜここに来て、憲法改正ではなく「解釈改憲」をやろうとしているのでしょうか。
私の推測ですが、おそらく安倍首相は、今の政治状況で憲法改正を正面から進めたら、自分のやりたいことができない、と考えているのではないかと思います。
現在の衆参両院の議席配分は、自公で衆参両院3分の2に届いていません。
衆議院では全480議席中、自公で325議席。約67.7%で、3分の2以上あります。
しかし参議院では全242議席中、自公で135議席。約55.7%で、3分の2に届きません。
(…まさに去年の参院選は、日本の歴史の分水嶺だったわけですね…)
そして、公明党は憲法改正については、決して自民党と一枚岩ではないという事情もあります。
こういう環境下で憲法改正を現実的に進めようと思えば、野党に譲歩せざるを得ません。
そうなれば、憲法改正案の内容について、そうそう安倍首相が自由自在にはできないでしょう。
これが不満だから、安倍首相は解釈改憲という、いわば裏口入学のようなことをやろうとしているのではないでしょうか。
ライフワークだと言っていた憲法改正をやらないのなら、安倍首相はじゃあ、何がやりたいんでしょうか…?
■立憲主義は民主主義国家でこそ重要
憲法改正憲法改正と言っていた割には、安倍首相の憲法に対する理解が非常に怪しいものであることはよく知られています。
2/3の予算委員会で、安倍首相は「憲法が国家権力を縛るというのは「考え方のひとつ」にすぎず、それは王政時代の考え方であって、今の憲法はそういうものではない」という、驚くべき見解を披露しています。
○安倍内閣総理大臣 憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、今まさに憲法というのは、日本という国の形、そして理想と未来を語るものではないか、このように思います。
開いた口が塞がらない、とはまさにこのことです。誰か安倍首相にレクチャーする人はいないのでしょうか…?
憲法とは、強大な国家権力を、国民の権利と公共の福祉を守るために縛ることこそをまさに目的としています。
そして、憲法によって国家権力を縛ること――すなわち立憲主義は、民主主義国家でこそ重要だと私は考えます。
民主主義国家であれば、政権交代が起こるのが普通です。
次にどういう政権になるかは予測できません。
もしかすると、「安倍首相すらまだマシだった…」と思えるほどの極右政権が誕生する可能性だってあります。
その可能性を考えれば、その時々の政権が解釈によって勝手に憲法の内容を変えてしまうことが、いかに危険かわかろうというものです。
「その時々の都合で解釈変更をしていいんだ」という実績を作ってしまうこと自体が、危険極まりないのです。
■王道を行くべし。正々堂々と憲法改正の議論を
みんなの党の浅尾慶一郎代表は、解釈による集団的自衛権容認に理解を示し、「憲法改正の前にやるべきことがある」と銘打って政治改革や中央集権打破などを訴えています。
また、集団的自衛権の行使に関わる憲法9条の解釈変更の議論も行われています。
みんなの党は、憲法が規程する恒久平和主義を実現するためにも、どの国家も保有する権利である集団的自衛権を我が国が行使できるようにすることも検討すべきと考えています。
ご説は結構ですが、しかしそのために「憲法」という国の根幹を揺るがす「解釈による集団的自衛権容認」を認めてしまってよいのでしょうか?
本記事のタイトルでは、敢えて浅尾代表の言葉「憲法改正の前にやるべきことがある」をひっくり返して「憲法改正の前に、やっちゃいけないことがある。」とさせていただきました。
本当に集団的自衛権が必要なら、なぜそれが必要なのか、今日本がさらされているリスクと、その対応策を実施するにあたって憲法上障害となっている部分について、広範かつ具体的に国民に説明し理解を求めて、憲法改正という「王道」を正々堂々と進めるべきです。
それができないのであれば、政府が「その場その場で都合よくやりたい」という意図を持っているのだと疑わざるを得ません。
こうしたことをこそ防ぐために、憲法があるのです。
2014年の憲法記念日は、憲法という日本国の根幹について今一度深く考える、よい機会だったのではないかと思います。
(2014年5月4日「中妻じょうたブログ」より転載)