「アフリカの問題なんかより日本の問題に取り組め」と私を批判するあなたへ

今私たちが生きるこの世界では「アフリカの問題」「日本の問題」と、こんなにも簡単に棲み分けて考えられるものだろうか。

時々、アフリカの紛争や貧困に関する記事を書くと、「アフリカの問題(貧困)なんかよりも日本の問題(貧困)に取り組め」という批判が飛んでくる。

日本人の私は、アフリカではなく日本の問題に目を向けなければならないのだろうか。日本人なのにアフリカの問題に取り組んでいると、批判されなければならないのだろうか。

今私たちが生きるこの世界では「アフリカの問題」「日本の問題」と、こんなにも簡単に棲み分けて考えられるものだろうか。

南スーダンからの難民と筆者。ウガンダ北部にて撮影。(photo by コンフロント・ワールド)

例えば、私が設立に携わった国際協力団体コンフロント・ワールドの、そして私自身のビジョンで大きなキーワードとなるのが、「公正」という言葉。

この公正は、アフリカの問題であれ、日本の問題であれ、今私たちが生きているこの不条理極まりない世界を良くするためには、世界を変えていくためには、大切な考え方になると私は思う。

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世界の不条理に挑戦したい。たった一人の想いから、この活動は始まりました。

今私たちが暮らすこの世界には、数え切れないほど多くの不条理が蔓延しています。たくさんの人々の尊厳が傷つき、未来への希望や可能性が奪われています。生まれた環境によって、命の価値が変わっています。恵まれる人と恵まれない人の間に、限りなく格差が広がっています。

貧困や紛争、環境破壊など多くの問題が生じている今日、求められるのは「公正」、つまり人々が同じ機会へアクセスできる環境、またその状態が確保されることだと信じます。

「公正」の下、私たちは不条理の無い世界の先に待つ、「必要最低限の生活と権利が保障され、ひとり一人が尊厳を持ち、自分で未来を決められる社会」を目指します。(「国際協力団体コンフロント・ワールド公式ホームページ」より引用)

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公正平等の違いは何だろう。

英語では、equality(平等)、equity(公正)と非常に似ている。

公正とは、人々に同じ機会へのアクセシビリティ(accessibility)が確保されていること。

時として、個人それぞれの差異や来歴は、何らかの機会への参加に対して障壁となることがある。

先進国と途上国との間でも、一国の中でも、生まれた場所の社会状況や家庭環境によっては、医療、教育、食事、情報・・・といった、一般的には当たり前のものとして享受できる機会への参加が妨げられてしまうことがある。

それも、私たちが今生きている2017年の世界/社会では、その人の責任では無いにも関わらず、世界(社会)システムの構造的な要因によってそのような立場(当たり前のものとして享受されるべき機会にアクセスすらできない立場)に置かれてしまう人々がいる

例えば、経済成長著しいバングラデシュで、急激な開発から取り残される都市部のストリートチルドレンたち。

首都カンパラを始めとした南部の富裕層と比べると、1日の収入がわずか数百円など圧倒的に貧しい生活状況に置かれているウガンダ北部の人々。

このように、暴力を産み出す主体は不明確ではあるが、社会システムの中で定着し、構造化している資源配分とその決定権の不平等などを、平和学の権威ヨハン・ガルトゥングは「構造的暴力」と呼んだ。

戦争や武力衝突といった「直接的暴力」は存在していないが、貧困、飢餓、格差などが存在している第三世界は、決して平和とは呼べない。

少し話が逸れたが、公正さが担保されることによって、その社会に暮らす人々は、同じ機会にアクセスすることが可能となるのだ。

私は、その機会を実際に行使するか否かについては、その者個人の意思に尊重されるべきだと思うが、自分の責任では無いにもかかわらず、一般的には当たり前のものとして享受できる機会に対して、アクセスすらもできない人が生まれてしまう世界/社会を、公正と呼ぶことはできない。

それこそ、私が普段から口にしている"世界の不条理"だ。

「平等」とは違う。何も社会に暮らす人々が同じものを得て、同じ生活水準になり、そして同じだけの機会を行使する社会を求めているのではない。

世界を見渡せば、当たり前のものとして享受されるべき機会にすらアクセスできない人が、山ほどいる。

バングラデシュでは、飲み水を得るために毎日数キロ歩かなければならない人と出会った。

ウガンダでは、南スーダン難民居住区内の数千人の子どもたちが、わずか数百円の学費を払えないため小学校に通えていないと聞いた。

バングラデシュの路上で出会った、地べたに寝かせられ物乞いに使われる少年。脇にはお金を入れるためのボウルが置かれている。(photo by Kanta Hara)

一方で、私たちが今暮らしているこの日本社会も、公正な社会だとは決して呼ぶことができないだろう。相対的貧困の問題がまさにそうだ。

日本は貧困率が約16%ととても高い国の一つで、6人に1人は貧困ラインを下回る生活を強いられていると言われている。

これは、OECD加盟国の先進国30か国中でも4番目に高い(参照:イーズ未来共創フォーラム『先進国30ヶ国中、貧困率が4番目に高い日本』より)。

貧困には大きく絶対的貧困と相対的貧困が存在するが、日本の貧困は後者の相対的貧困から考えられている。

日本の貧困、つまり相対的貧困の定義は、全人口の所得、その中央値の半分を下回っている割合を指す。年によって変化はあるものの、日本の所得の中央値は概ね年収250万円、つまりその半分に当たる年収125万円以下は「貧困」と定義される。

年収125万円というと、月収にすると約10万円。もちろん、日本の「一般的」な家庭、例えば大学に子どもが通えるような家庭であれば、月収10万円という額はとても少ないように感じるだろう。

だが、例えば私がウガンダ最北部で出会った南スーダン難民の月収は300円。

バングラデシュで出会ったストリートチルドレンの一日の収入は100円。

日本と発展途上国との間で物価の違いはあるかもしれないが、南スーダンの難民やバングラデシュのストリートチルドレンには安全な水や衛生環境、また住居へのアクセスも十分に確保されていないことを考えると、「月収10万円」という額はまだ"マシ"に思えるかもしれない。

ウガンダ最北部の南スーダン難民居住区にて調査を行っていた時の筆者(photo by Kanta Hara)

では、この「相対的貧困」は何が問題なのだろうか。その時に考えるべきが、「一つの社会における公正」だと私は思う。

大学に通って高等教育へとアクセスできること。スマートフォンを手にしてあらゆる情報へとアクセスできること。

もはや周りのみんなにとっては「当たり前」である生活が享受できない人々がいる社会というのは、公正ではなく、本当の意味での豊かさは失われてしまっていると私は思っている。

最初に書いたように、アフリカの紛争や貧困に関する記事を書くと、いや私がアフリカの問題に取り組んでいることを発信すると、「アフリカの問題なんかよりも日本の問題に取り組め」という批判が時々飛んでくる。

時には、「お前が早稲田大学に払っている学費を全て寄付しろ」といった余りに短絡過ぎる意見すらも目にする。

グローバル化がますます進展し、あらゆる出来事が繋がりを深め合っている今日の世界では、社会問題はますます複雑化し、ある国の問題が他の国の問題と関係していたり、両者に共通の要因を見い出せたりできる。

もちろん、アフリカの問題であれ日本の問題であれ、単に「お金の寄付」で解決できるほど、問題は単純ではない。

私が目指す「不条理の無い公正な世界」を実現するためには、アフリカやアジア地域の途上国における問題に取り組んでいるだけでは、きっと不十分だ。

どうか私がアフリカの紛争や貧困を偉そうに語っていたとしても、ただ「アフリカではなく日本の問題に取り組め」と言わないで欲しい。

日本は時に「批判大国」だと揶揄されることもあるが、批判的な視点であっても提言をし合い、その先にある協働を模索できるような社会の方が、よほど過ごしやすくはないだろうか

これからの日本社会を担う若者だからこそ、そう願ってしまう。

(2017年5月2日 原貫太公式ブログ「世界まるごと解体新書」より転載)

以下の記事もぜひご覧ください!

<それでもあなたは世界を無視できますか?>

紙版の詳細は こちら

電子書籍版の詳細は こちら

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誰だって、一度は思ったことがあるだろう。今この瞬間にも、世界には紛争や貧困で苦しんでいる人がいるのはなぜなのだろうと。その人たちのために、自分にできることはなんだろうと。

僕は、世界を無視しない大人になりたい。  --本文より抜粋

ある日突然誘拐されて兵士になり、戦場に立たされてきたウガンダの元子ども兵たち。終わりの見えない紛争によって故郷を追われ、命からがら逃れてきた南スーダンの難民たち。

様々な葛藤を抱えながらも、"世界の不条理"に挑戦する22歳の大学生がアフリカで見た、「本当の」国際支援とは。アフリカで紛争が続く背景も分かりやすく解説。今を強く生きる勇気が湧いてくる、渾身のノンフィクション。

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記事執筆者:原貫太

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