ニュースを流通させるのは、新聞の販売網やテレビ送信機よりも、ソーシャルメディアになりつつある。そこでニュースの原動力となるのは、客観性の装いなどではなく〝エモーション(感情)〟だ――。
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)教授でシンクタンク「POLIS」所長、チャーリー・ベケットさんが、ジャーナリズムの現状について、そんな読み解きをしている。
By Daniel under CC BY-NC 2.0
共感や親密さを含む〝感情〟のやりとりがベースとなるソーシャルメディアの時代に、ジャーナリズムのあり方も、根本からの見直しが迫られているとの指摘だ。
もやもやしたメディアが現状が、すっきり像を結ぶ感じの面白い議論だ。
●ネットワーク・ジャーナリズム
ベケットさんは、英BBC、チャンネル4のジャーナリスト出身。デジタルジャーナリズム論の論客として知られる。
その論点の一つが、2008年の著書『スーパーメディア』などで提唱した〝ネットワーク・ジャーナリズム〟という考え方だ。
ネットワーク・ジャーナリズムはプロダクト(製品)ではなくプロセス(過程)だ。ジャーナリストは引き続き報道し、編集し、ニュースをパッケージにする。だが、そのプロセスは切れ目なく(ネットユーザーと)共有されていく。ネットワーク・ジャーナリストの役割は、ニュースを届けるゲートキーバー(門番)から、ネットでつながる人々の取りまとめ役へと変わっている。
ジャーナリズムは今や、ソーシャルな情報流通のプロセスの一つとして組み込まれていて、ネットユーザーを含むすべての人々がその参加者だ――そんな〝ネットワーク・ジャーナリズム〟の議論を、ベケットさんはさらに先へと進める。
●〝エモーション〟の新たな役割
ベケットさんは、ここで〝エモーション〟という言葉を、通常の意味よりも広げ、共感を共有につなげる、ソーシャルメディア時代のニュースの伝播力の源泉となる〝ツール〟として捉えている。
モバイルは、ユーザーが24時間手元に置く最も身近で主要なメディアとなり、かつてないほどユーザーの生活サイクルの中に入り込むようになった。
つまり、ジャーナリズムは人々のデジタルモバイル生活の中で、子猫やショッピング、スポーツ、音楽、ポルノなどと混ぜ合わされる世界の中で機能しなくてはならない、ということだ。
では人々はなぜ、ソーシャルメディア上でコンテンツを共有するのか?
ベケットさんは、「ヴォックス」のエンゲージメントエディター、アリソン・ロッキーさんのこんな言葉を引く。
それによって、自分自身のことを他人に向かって定義してみせるため:エモーショナルな行動だ。
そして、こう述べる。
ニュースがソーシャルメディアの一部になりつつある以上、この(共有の)プロセスの一部でもあるのだ。
●〝エモーショナル〟な報道
ジャーナリズムにおける編集作業とは、ニュースの対象となる出来事を、ファクト(事実)に基づいて客観的に捉え、ニュースの形式にまとめ上げることだ。
コラムやオピニオン記事でもない限り、通常そこに〝エモーション(感情)〟の入る余地はない。
しかし、ネットワーク化したニュースでは、出来事はしばしばソーシャルメディア上で報じられ、議論されていく―ジャーナリズムそれ自身も、コメントと共有の対象となる―現在進行形のジャーナリズムのプロセスを、人々とライブで共有していくのだ。エモーションがこのプロセスの中で、ニュースのつくり手、消費者、あるいは共有者いずれにとっても重要な要素になっていけば、(ジャーナリズムの)プロの文化にインパクトを与えるのではないか。私はそう思っている。そこに興味深いフィードバックループが生まれ、未来のニュースづくりのあり方にもかかわってくるのではないか、と。
その先行事例としてベケットさんが挙げるのが、このブログでも以前紹介した「チャンネル4」の看板ニュースキャスター、ジョン・スノーさんによるガザ報道だ。
スノーさんは昨年7月、ガザの病院を取材し、傷ついた子どもたちの姿が「心に刻み込まれた」と率直な心情を吐露し、「このままにしておいてはダメだ。力を合わせて、状況を変えることはできる」と訴えかける動画を公開。ユーチューブで80万回以上も再生される反響を呼んだ。だが、「放送の中立性」に抵触する可能性から、テレビでは放映されずにいる。
かつての同僚でもあるスノーさんの動画について、ベケットさんはこう述べる。
これは興味深い事例だ。彼は政治的見解を述べているのだが、エモーショナルな表現を使っている―共感を何らかの行動につなげようとする訴えだ―その行動の中には、(動画を見た)人々が自らメディアを使って意見表明をすることも含まれる。
●揺らぐ客観性
ここで改めて問題となるのが、客観性の扱いだ。
〝エモーション〟という要素は、プロパガンダ(宣伝)やクリックベイト(クリック誘導)とも隣り合わせだ。
ただベケットさんは、いくつかのポイントを挙げ、〝新たな客観性〟を提言する。
まず、従来のジャーナリズムにおける客観性について、ニュースの題材選び、編集作業のそれぞれにも、すでに主観は反映されているとし、賛成反対の両論を併記することが正確な報道であるとも言えない、と指摘する。
また一方で、エモーションに訴えかけ、恐怖や興奮を煽るイエロー・ジャーナリズムや、刺激的場面を重視する放送ジャーナリズムは従来からあったとも述べる。
さらには、エモーション主導のソーシャルメディアの広がりそれ自体も、同種の意見のみにタコツボ化していく〝フィルターバブル〟の危険性をはらむという。
メディアの側も、ロシアの実質的な国営テレビである「RT」から中国国営放送の「CCTV(中国中央電視台)」、米保守派テレビ局のフォックス・ニュースから英左派系のガーディアンまで、色濃い党派性を見せている、とも指摘している。
だが、バイラルメディアの「ヴァイス」や「バズフィード」は、カジュアルな語り口でエモーシナルに訴えかけるが、紛争などの現場の映像を直接、ユーザーに届けることで、情報の信頼性も客観性も損ねていない、とベケットさん。
人々はエモーションと合わせて、ファクトや信頼できる語り口も求めている―これは矛盾ではないのだ。
そして、こう述べる。
私の考える基本原理―市民にとっても、ジャーナリストにとっても―それは、透明性だ。透明性こそが新たな客観性だ。
●〝エモーション〟のデータ
ベケットさんは、この論点をさらに深めるため、エモーションの役割とその影響についてのデータが必要だという。
これまでも何度か紹介してきたが、例えばフェイスブックはユーザーの感情傾向を操作する大規模実験を行ったり、選挙への動員実験を行ったりしていたことが明らかになり、その危険性や、予測不能な影響、 フィルターバブルとの関わりなどについても、議論を呼んできた。
フェイスブックのようなソーシャルメディアが、そのデータを一般に開示して研究に役立てれば、ジャーナリズムにとっても、ユーザーにとっても、(多分フェイスブックにとっても)興味深い結果が出てきそうな気はする。
(2015年9月12日「新聞紙学的」より転載)