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2018年05月31日 10時11分 JST | 更新 2018年05月31日 10時17分 JST

なぜ父親の育児参加は大切か―萩生田代議士の言の「薄っぺらさ」の理由について

男性である筆者の育児経験について話したい。

自民党幹事長代行で衆議院議員の萩生田氏が「0~3歳児の赤ちゃんに『パパとママ、どっちが好きか』と聞けば、どう考えたって『ママがいい』に決まっている」と発言し、さらには「『男も育児』だとか言っても子どもにとっては迷惑」とまで述べたことに対し、少子化やワークライフバランス問題について研究し発言してきた者の一人として、また父親として過去に幼児期の子育てに積極的に関わった者として、とても見過ごしにできず、批判記事を書くことにした。

既に幼児の子育てに関わっている多くの父親たちから現在進行形の経験である育児の素晴らしさについてウェブで多くの発言がある。だが私と近い世代の男性の育児経験の話はほとんどない。

だがこれは世代を超えた問題なので、個人的体験に過ぎないが、萩生田氏の言への生きた反証として筆者の育児経験についても語りたい。

ただ個人的体験を述べる前に、関連問題の専門家として、幾つかの社会科学研究による事実を述べたい。

まず萩生田氏の言葉には全く科学的根拠が無い。幼児の健全な生育に身近に愛情を持って育児に携わる者の存在が必要なことは誤りがない。また小学校就学前の言語発達も、人間が(録音による人間の音声では不可)直接話しかけることや、その語彙の豊かさなどにも影響されるという事実も判明している。だが重要な事実はその「人間」が母親で無ければならないと結論した研究など全くないことである。

母親でなく、父親でも、祖父母でも、血のつながらない養父母でも、保父・保母でも同様な愛情をもって子どもに接する限りその影響に差はないと考えられている。

また荻生田氏の言は託児所に幼児を預けることへの批判と結びついた議論であるが、家庭のみによる育児が必ずしも最適ではない。

リグレーとドレビー(Wrigley and Dreby 2005)は米国の権威ある社会学誌である米国社会学評論おいて1985-2003年の米国の全国の幼児死亡について、(1)自宅のみで育児をしている家庭、(2)ファミリー・デイケア(ベビーシッターの家での育児)を利用している家庭、(3)託児所を利用している家庭、の3種の家庭を比較した結果、幼児死亡率は(1)、 (2)、 (3)の順に高く、自宅のみで育児をしている家庭の幼児死亡率は、託児所利用の家庭の16倍にも上ることを示した。家庭の中には児童虐待や育児放棄(ネグレクト)などをする家庭があり、自宅のみの育児ではそれが外に気づかれにくいことが一因と考えられる。残念ながらすべての親が子どもを大事にする親ではない。

父親の育児参加が母親の一子目の育児体験をポジティブなものにし、それが第2子目の出産率を上げるという筆者の日本研究についても言及しておきたい。

当初は二人の子どもを産むことを希望する母親がその希望を実現しないのは、一子目のときの夫が育児への非協力というネガティブな育児体験が主な原因となっている。第一子目への父親の育児参加度が第二子出生率を上げるという事実は筆者の研究後厚生労働省のパネル調査でも再確認された。

さて、個人的経験で恐縮だが、男性である筆者の育児経験について話したい。一般に米国では父親・母親の区別無く育児が大切であるという考えに対し雇い主の理解があるので、筆者の1980年代の育児経験も米国で子育てが出来たことと無縁ではない。

特に最初の子(娘)のときは、シカゴ大学の博士課程の時代で就職前であったので貧乏だが時間だけは比較的豊富であったことも幸いした。二子目(息子)のときはコロンビア大学助教授兼研究員時代で、研究員業務が当事は未だフレックスタイム勤務も無く、教員としてのみの任用とは異なり時間的拘束のある職であったが、それでも職場では筆者が育児に携わることへの理解があった。

子育をして最初の驚きは娘が生後4週目ぐらいから、筆者(以下「私」)の声に反応し始めたことだ。妻が話しかけても反応しないのだが、私が話しかけるとそのたびに「ウーウー」といって応える。これは妻が私に嫉妬したような出来事であったが、どうも娘には私の声だけが自分に話しかけていると感じたらしい。

しばらくして妻の声にも反応するようになったが、私の声だけに反応する期間があり、さらには同様のことが息子の場合にも起こった。多分子どもたちにとって私の声の音声のほうが身近に感じる性質のものであったのだろう。

しばらくたって、子どもたちを寝付かせるのにも私のほうが適役だと判明した。

一緒に過ごす時間は妻のほうが多いのに、私が話しかけたり、本を読んだり、子守唄を歌うほうが、子どもたちの寝つきが良いのである。その結果子どもたち寝かしつける役は自然に私になった。

寝際に子どもに本や絵本を読んで、子ども二人を異なる子育てをしたわけではないのに、二人の子どもに好みや特質の違いがあることにも気づくようになった。例えば娘は動物の話が好きで、息子は乗り物の話が好きである。といっても、子どもたちの好む物語の中では動物も乗り物もみな人間のような心を持つ存在である。

また絵本を見て絵について子どもたちと話しても、娘は全体から何を表す絵かをまず理解しようとするが、息子は小さな部分にまず眼が行き、細かい違いに気づいてそれを面白がる。子どもに本や絵本を読む時間は、子どもたちの成長を観察することの喜びの時間であると共に、自分の子どもではあってもそれぞれ個性を持つ個人でもあることを早くから学習する時間となった。

また冒険物語を読むことを子どもたちが特に喜ぶこと知ったので、私は寝際の語りに子どもたち二人を主人公にして創作の冒険物語を即興で作り、続き物語として話し出したのだが、それには二人とも夢中になった。

プロの童話作家の物語に比べれば稚拙な物語ではあったが、それでも子どもたちは物語に自分たちが出てくることに興奮したのである。

千夜一夜物語ではないが、毎晩続きを聞くの楽しみにするようになった。私は子どものころ飯沢匡作の『ヤンボゥニンボゥトンボゥ』というラジオドラマに夢中だったことがある。黒柳徹子さんが「トンボゥ」役の声優として活躍したドラマである。そのドラマの主人公たちのように、私は自作の物語で子どもたちを共に賢く、勇気があり、かつ心の優しい子に描いた。そういう姿を描くことで、子どもたちがそういう子でありたいと思って欲しいと願ったからである。

また上記のラジオドラマには作曲家の服部正氏による子どもに親しみやすい多くの挿入歌がある。それに習って私も子どもたちを主人公にした物語に主題歌を作った。その主題歌は子どもたちもすぐ覚え、一緒に歌うようになった。

もちろん、子育てはこれらのことだけではなくおむつを替えて汚れを取ったり、風呂に入れたりという日常の様々なことも経験し、それらも大切な思い出である。子どもたちが快適に感じれば自然に笑顔になるという、ごく当然だが親にとって貴重な経験ができ、またそれは親であることの幸せを感じられる時間でもあった。

現在30代後半となり共に米国カリフォルニア州で働く娘と息子は、今でも自分たちが幼いころ寝際に、父親から物語を聞き、歌を歌ってもらってことを良く覚えている。それは子どもたちにとっても喜びの思いでであり、勿論私にとってはなおさらそうである。

これは私的な経験であり勿論単なる一例に過ぎない。実際米国で子育てに積極的にかかわった父親たちにその経験について尋ねたら、それこそ「十人十色」の多様で豊かな経験の話が聞かれるだろう。

ただ筆者は大多数に共通なこともあるということは確信できる。それは父親であれ母親であれ、育児は子どもたちについて学ぶだけでなく、自分自身について学ぶ掛け替えのない機会で、苦労もあるが、その経験の喜びは苦労をはるかに上回るということである。

萩生田氏の言葉を聞いて、その薄っぺらな思い込みをむしろ気の毒とさえ思う。様々な事情で結婚しないとか結婚しても子どもを持たないという人生の選択をした人たちについては、筆者はその人たちの人生であり、何も言うことはない。

しかし結婚し、子どもを持ちながら、育児は女性の役目と考え育児に参加しない男性達や、仕事が忙しすぎるという理由で育児はできないと考える男性達には、こう言いたい。貴方たちは機会がありながら人生の中で最も貴重な経験を失っており、それは子どもたちとっても大切な人生の機会の一つを失うことだと。幸い現在の若い世代にはそれに気づいた父親たちも多い。

だがそれを知らない萩生田氏に子育てに関し他人にとやかく言う権利は全くない。