違憲安保法案の阻止に全力を・・・内閣不信任案を含めあらゆる手段を駆使

安保法案に反対する野党は、あらゆる手段を講じても、この違憲法案の成立を阻止しなければならない。

今週、安倍政権は、各種世論調査によれば、6割以上の国民が反対し、8割以上の国民が未だ説明不十分で今国会成立は時期尚早としているにもかかわらず、参院での採決を強行する。しかも、国会審議を進めれば進めるほど、理解が進むどころか逆に反対が増えているというのに、である。維新の党をはじめ、この法案に反対する野党は、あらゆる手段を講じても、この違憲法案の成立を阻止しなければならない。

この間、我が維新の党は、憲法学者や元内閣法制局長官が「合憲」と評する独自案を国会に提出し、与党・自公と協議を重ねてきた。しかし、予想されたこととは言え、「はじめに原案で成立ありき」の安倍政権の方針の下、有意な修正が得られようもなく、まったくの徒労に終わった。政治の世界だけでなく、国民各界各層からの建設的な提言もすべて無視した上での、原案どおり無修正の強行採決である。

この安保法制をめぐっては、これまで、政府部内では伝統的に外務省と防衛省のせめぎあいがあり、また、学界では、憲法学者と国際政治学者との対立があった。

まず、政府部内について一例をあげれば、周辺事態法策定時、発進準備中の戦闘機への空中給油の是非を巡り、積極的な外務省(米国からの要請が背景)と、消極的な法制局、防衛庁との間で見解の相違があった。

先週の参院審議でも、この問題について、大森政輔元法制局長官は「(97年のガイドライン見直し協議で)、日本側は『典型例な一体化事例であり、憲法上認められない』と言い続けたようだ。最終的に、表面上は『ニーズがない』ということで収めたが、その痕跡を残すために(周辺事態法)別表の備考欄(できないことリスト)にわざわざ書き込んだというのが真相だった」と発言した。

この答弁からも伺えるように、安保を巡っては「対米追従」でいつも前のめりな外務省と、実力組織(自衛隊)を持つがゆえに慎重な防衛省との対立の歴史があるのである。

今回の安保法制策定時にも、私のところに来た防衛省幹部はこう言ったものだ。

「私たちは、安倍首相が集団的自衛権に踏み込めと言うから、今、こうした法案を作った。しかし、これまでのように、個別的自衛権の範囲内で法案を作れと言われれば、同じようなものをその範囲でつくる。それが私たち官僚の役割ですから」

故・後藤田正晴官房長官も、警察出身だからこそ、その権力の行使には抑制的であった。一方、武力行使とか権力の発動とか、そうした分野には縁遠い人たちほど、その「力の行使」を無邪気に言い募る。外務官僚が典型だろう。経済官僚時代の私もそうだったことは以前にも触れた。

安保法制への評価については、憲法学者と国際政治学者との間でも違う。前者は違憲で反対、後者は憲法とは関係なく「集団的自衛権」は認めるというものだ。

理由は簡単だ。憲法学者は当然、憲法を基本に考えるので、それに反する安保法制は絶対に認めない。一方、国際政治学者(国際法学者ではない!)は、国際的には「集団的自衛権」は各国の固有の権利という、ある意味、国際的常識の中で生きているので、元来リベラルな学者でも、安保法制を肯定的にとらえるのだ。

現行憲法を無視した議論をしても良いのなら、国際政治学者の議論も成り立つだろう。しかし、憲法は我が国の最高法規だ。それに問題があれば、憲法改正を目指すべきだというならまだ正論ではあるが、憲法9条という、国際社会からすれば特別な規定が今ある以上、日本国民であればそれに従うのが当然の帰結だ。

山口繁・元最高裁長官は、先般、朝日新聞のインタビューで「内閣法制局の現状をどう見ているか」と聞かれ、以下のように答えている。

「非常に遺憾な事態です。法制局はかつて『内閣の良心』と言われていた。『米国やドイツでは最高裁が違憲審査や判断を積極的にするのに、日本は全然やらない』とよく批判されるが、それは内閣法制局が事前に法案の内容を徹底的に検討し、すぐに違憲と分かるような立法はされてこなかったからです。内閣法制局は、時の政権の意見や目先の利害にとらわれた憲法解釈をしてはいけない。日本の将来のために、法律はいかにあるべきかを考えてもらわなければなりません。」

先の大森元長官は、その参院審議の場で、この山口発言について聞かれ、「本来ならば、顔を上げて(元)最高裁長官の姿を見るのは恥ずかしくてできないし、またここで皆さまに答えることもできないような気持ちだ。しかし、このまま今のような状態が続くわけではなく、誰か今の流れを変えるものが出てくるはずであると信じたい」と述べた。

この大森元法制局長官は、私がお仕えした橋本政権当時の内閣法制局長官だった。当時の橋本首相の厳しいご下問にも、頑なに自説を曲げない方だった。その良し悪しは別にして、また、内閣法制局が憲法の最終的な有権解釈権を持つわけではないことを前提としても、こうした過去の解釈と経緯が積みあがった、ガラス細工のような憲法解釈の変更については、時の為政者は、こうした意見に謙虚に耳を傾けなければならない。

「誰か今の流れを変えるものが出てくるはずであると信じたい」。この言葉を肝に銘じ、これからの政治活動を行っていくことを誓いたい。

(2015年9月14日「江田憲司 今週の直言」より転載)

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