ハワイ日本文化センターで知る日系人の歴史(2世、第442連隊)―「ハワイと日本、人々の歴史」第12回

アロハ、Myハワイ編集長明子です。「ハワイと日本、人々の歴史」シリーズでは、観光地としてのハワイから一歩踏み込み、ハワイと日本をつなぐ人々に焦点をあて、その歴史を掘り下げて紹介しています。

アロハ、Myハワイ編集長明子です。「ハワイと日本、人々の歴史」シリーズでは、観光地としてのハワイから一歩踏み込み、ハワイと日本をつなぐ人々に焦点をあて、その歴史を掘り下げて紹介しています。前回は、オアフ島モイリイリにあるハワイ日本文化センター(写真下)で行われている、「Okage Sama de Tour(おかげさまでツアー)」より、主に日系1世の歴史についてご紹介しましたが、今回はハワイ生まれの日系2世にスポットを当ててみたいと思います。

日系2世の歴史といえば、なんといっても第2次世界大戦と、ハワイと米本土の日系2世により編成された「第442連隊戦闘団」、「第100歩兵大隊」、そして主に通訳や翻訳、暗号解読を担当した「ミリタリー情報サービス(MIS)」などの、華々しい活躍が挙げられると思います。何度も映画やドキュメンタリー番組で紹介されていますし、もちろん、おかげさまでツアーでも、ツアーの最後にフィルムを観て、その背景を詳しく学びます。アメリカの戦史の中でも1、2を争う、大変重要なトピックなのです。彼らが日系社会すべてにもたらした「変革」とはどのようなものだったのでしょうか?

ハワイ生まれのアメリカ人ではあるけれど、家では父母と日本語で会話し和食を食べ、盆踊りを踊ったり相撲をとったり、寺社仏閣に参拝したりと、日本文化をごく自然に受け入れ育ってきた日系2世たち。と同時に、一歩家庭を出ると英語で会話し、フットボールやバスケットボール、サーフィンにアメリカのテレビ番組などを楽しみ、のびのびとアメリカ文化を吸収し、アメリカ人としてのアイデンティティを育んでいました。

1941年12月7日、その健全で美しいバランスが、一瞬にして崩れ去る「事件」が起きました。日本軍による真珠湾攻撃です。大きな爆発音とともに、海のほうから火の手があがり、ことのあらましが伝わってくるにつれ、ハワイの日系人の間には、身を引き裂かれるような不安な気持ちが駆け巡りました。「何故、親の国が」とゆっくり考える暇もなく、敵味方の争いの渦中に放り込まれたのですから。

米本土では、当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領が「大統領令9066号」を発令し、主に西海岸に住む日系人とその家族の持ち物をすべて没収したうえで、彼らを人里はなれた強制収容所へと隔離することになりました。ハワイでは日系人の数があまりにも多かったため、大規模な収容は行われなかったものの、日系社会のリーダーだった1,200~1,500名の1世、2世が強制収容されています。そのような世相の中、ハワイ生まれの日系2世にとっては、もがきつつも「忠誠心」を見せることが、唯一の生きる道だったということは、想像に難くありません。

日系2世の若者たちは、祖国に尽くすため、われがちに志願しました。予備役将校訓練課程(ROTC)に在籍中、または終了したハワイ大学生たちは準州警備隊になりました。しかし、敵国の血を引くということだけで、その忠誠心が疑問視され、何の説明もないままに除隊させられてしまいます。それでもアメリカ人として祖国に忠誠を尽くす道を選んだ若者たちは、当時の元帥に請願し、これを受けて日系アメリカ人から成る労働奉仕を行う大学勝利奉仕団(VVV)という工兵グループが編成され、鉄条網を張ったり土嚢を積んだりの銃後の仕事をかいがいしくこなしました。VVVには一般の2世も参加し、そのすばらしい働きに、再び日系人の志願兵を受け入れる機運が高まります。

1942年6月には、開戦前から軍に所属していたハワイの日系2世兵士1,400名がウィスコンシン州に送られ訓練を受けた後「第100歩兵大隊(Separate)」と、翌年には日系2世による連隊規模の部隊が編成され「第442連隊戦闘団」と名付けられました。

第442連隊戦闘団は、アメリカ戦史上、もっとも多くの勲章を受章した部隊です。ヨーロッパ戦線で勇猛に戦い、その死傷者数はのべ9,486名。死傷率は314%という数字からも、その猛烈なる死闘ぶりがわかるはずです。死傷率がなぜ314%かというと、連隊の消耗が激しかったため、次々と補充兵が入り、そのつど負傷兵が出たためです。2012年に亡くなった、ハワイ出身の合衆国上院議員、ダニエル・K・イノウエ氏(写真上)も第442連隊に所属しており、イタリアでのドイツ軍との戦いの際に負傷し右腕を失っています。

第442連隊の勇猛さを物語る多数のエピソードの中でも、敵の中孤立し「失われた大隊」と呼ばれたテキサス大隊の救出劇はたいへん有名です。フランスのボージュの森で起こったこの救出劇では、テキサス大隊の211人を救出するために、第442連隊の161人が死亡、42人が行方不明となり、負傷にいたっては2,000人以上にも上ったということです。

なぜこのように、満身創痍となりながらも、勇猛果敢に戦い抜いたのでしょうか? そこには、「国への忠誠を示し、偏見に打ち勝つ」という、ひたすら純粋で強い思いのみがあったからなのです。

前述したように、第442連隊はアメリカ戦史上、もっとも多数の勲章を受章した部隊です。その中でも、2010年にオバマ大統領より、第100歩兵大隊、第442連隊戦闘団、MISに贈られた「議会名誉黄金勲章(金メダル)」は、アメリカ合衆国で民間人に授与される最高位の勲章です。この議会名誉黄金勲章は、全米の博物館で巡回展示が行われましたが、ハワイのビショップ博物館で行われた展示会には、日系人のみならず多数のハワイ住民が詰め掛け、2世兵士の人々へ敬意と感謝の念を表しました。

第442連隊がヨーロッパ戦線において、最高の殊勲を上げたことで、1946年に当時のトルーマン大統領は部隊を閲兵し、次の言葉を贈っています。「You fought not only the enemy, you fought prejudice-and you won. (君たちは敵のみではなく偏見とも戦い、そして勝利した)」、と。身を挺して戦い抜くことで、偏見をうちやぶり、日系人の地位を向上させた2世の人々もいまや高齢となり、その人数も減ってきています。かつて日本とアメリカは敵同士として戦い、そこには数々の悲劇が生まれました。70年以上も前の話です。でも、このまま風化させるわけにはいきません。日本人である私自身も、彼らの話を学び、それによってハワイへの理解がさらに深まりましたし、自らのルーツ、移民として生きていくこと、これからの世代に渡したいことなどについて熟考することができました。

この2世兵士の方々の歴史を風化させないために、多数の団体、人々が運動しています。NPO法人NAC-Jの松元裕之監督によるドキュメンタリー映画、「Go for Broke! ハワイ日系二世の記憶」は、「ハワイに残るもう一つの日本史」として、彼らの生活、生き方を紹介しています。詳しくは、Facebookページまたはブログをご覧ください。

先に紹介しました、「おかげさまでツアー」は日本人旅行者でも、もちろん参加することができます。詳細はハワイ日本文化センターのウェブサイト(英語)をご覧ください。

(編集部注:この記事の中の展示物の写真および2世ベテランの方の写真は、ビショップ博物館の巡回展示にて筆者が撮影したものです。)

●ハワイ日本文化センター

住所:2454 South Beretania Street Honolulu, HAWAII 96826

電話:(808) 945-7633

開館時間:10:00-16:00(火~土)

ウェブサイト:www.jcch.com

(2014年02月28日「Myハワイ」より転載)

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