1.グローバル化への対応
企業活動がグローバル化していけば、社内の意思疎通のために最も多くの人たちが共通に理解できる英語が使われるようになるのは必然的かもしれない。社内公用語を英語にするという日本企業も出てきている。英語は日本語に比べて情報の伝達に優れているという説もあるようだが、現在の世界で多くの人たちが理解できるという現実の重みが大きな理由だろう。
研究や高等教育の場でもグローバル化が進んでいるが、日本の大学は世界の大学ランキングで苦戦している。例えばTimes Higher education rankingでは、東京大学は世界第27位に留まっている。その原因は、平均は78.3点あるが、国際性という項目では27.6点しかないことだ。アジアで東大に次ぐ29位のシンガポール国立大学は、平均が77.5点だが国際性は92.3点と高い。この原因の一つは日本の大学では留学生の比率が低いことで、これを改善するためには英語で教育を行うことが必要だと言われている。
自然科学の研究が英語の論文や国際会議での発表で行われていることはもちろん、経済学など社会科学でも英語による論文や研究発表、討論の能力がますます重要になっている。日本社会のグローバル化を進める上では、英語をどうするかという問題を真剣に考えなくてはならない。
2.先人たちの対応
さて、少し前にMITを見物に行ったことがある。ある教授が出版した教科書が、英語と中国語と日本語の翻訳の3冊が並べて展示されていた。中国の研究レベルが高いことを示すと同時に、かなり専門的な書物が日本語にすぐに翻訳されており、日本語だけで最先端にかなり近いところまで勉強できるという研究者のすそ野の広さを示すものでもある。
開国後に列強と伍していくために、明治時代の先人たちも同じような問題に直面したはずだ。初代の文部大臣森有礼は英語を国語にすべきだと主張したが、当時は欧米の進んだ学問を輸入することができれば十分だっただろう。できるだけ多くの日本人に最新の知識を伝えるという目的のためには、誰かが外国語の書物を日本語に翻訳して、それを日本語で教えるのが効率的だ。日本人の海外留学生が少ないことが問題になるが、国内で日本語で受けられる大学教育のレベルが非常に高いということもその大きな理由だ。
しかし明治の先人たちも、日本の大学が欧米の大学と世界のトップ争いをし、世界の経済活動がこれだけ緊密になるということまでは考えなかっただろう。
3.中国人の英語力向上
昨年北京で開かれた米国East-West Center主催の国際会議で、中国の英語教育に関するセッションがあった。北京師範大学の付属中学校・高等学校の生徒数人が英語で発表したが、ほとんどバイリンガルという印象で、昔の中国人留学生の英語とは比較にならない流暢さに驚いてしまった。学校で米国の研究者を招いて授業を行い、生徒も米国に行って教育を受けているということだった。すべての生徒にこれだけの英語教育を施すのは無理で、どう考えてもごく一部のエリートに限られているだろう。
世界で競争するには英語力が欠かせない。英語力を高めるためには、早い時期から教育を行った方が有利なことはあきらかで、日本でも小学校に英語教育が導入された。しかし、英語を母国語レベルで使う教育者を大量に確保するのは無理だろうし、英語教育のためには何か他の教育の時間を削らざるを得ない。残念ながら、これから教育を受ける若者の全員が、グローバル化に対応する能力を身に付けるというわけにはいかないのは明らかだ。
4.悪平等の打破が課題
国語外国語化論者のように、日本語を捨てるという考え方もありえないわけではないが、日本語は日本の文化や社会と分かち難く結びついている。日本語を捨て去るという選択肢が、今の日本社会で現実的な選択肢として受け入れられるとは思えない。今まで通り日常生活では日本語を利用しつつ、国際化に対応した英語能力を向上させるということが求められているのだろう。
英語教育を充実すれば、簡単に問題が解決できるというものでもない。筆者など日本語で小論を書くのですら四苦八苦しており、日本語能力も十分とは言い難い。早くから英語教育を受けていれば、これに加えて英語でも日本語と同じ程度の文章力や表現力を身につけられたとはとても思えない。さらに大学教育など高等教育で、高度の専門能力を習得させようとしたら、よほど才能に恵まれた人だけしか成功はおぼつかない。
結局のところ、国際的な競争に主眼を置いた大学、日本語での教育に重点を置いた大学など明確な特色と目的を持った機関に分化せざるを得ないのだろう。資金も人材も選択的・集中的に配分しなくて成功はおぼつかない。日本社会の最も苦手な形式的な悪平等の打破という問題がここでも真の課題なのではないだろうか
(※「ニッセイ基礎研究所 研究員の眼」8月12日付記事の転載です)