「人から好かれる努力」をすべきではない3つの理由

人生は短い。好きでもない相手に気に入ってもらおうとするなんて時間の無駄だ。コミュニケーション能力がないことを思い悩むほうが、よほど精神衛生上よろしくない。
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コミュニケーションの時代だ。

企業の採用基準には「コミュニケーション能力」が必ずあがるし、私立高校や大学が対人スキルの向上を学習目標に掲げることも少なくない。いまの日本では、誰もが良好な人間関係を築こうと必死になっている。もちろん私だって、豊かな人間関係に囲まれて暮らしたほうがしあわせだということに異論はない。

けどさ、なんだかおかしくない?

良好な人間関係って、努力して作り出すものなのだろうか。自分がしあわせになるために? 出世して収入を増やすために? そんな下心にもとづいて創出した人間関係は、はたして本当の「絆」と呼べるのか。

そもそも日本人はシャイな国民性を有している、らしい。留学生の友人たちは異口同音に日本人の奥ゆかしさを指摘する。週末のパブでスタウトを片手に嫁さんの愚痴をこぼしたり、休日にご近所さんとBBQをしてHAHAHAと大声で笑ったり、そんな社交的な習慣とは無縁な文化を私たちは作ってきた。どちらかと言えば、小さな工房にこもって欧米の大味な技術・知識を小型化したり精緻化したりするが得意な人々だったはずだ。ここ数年でいきなり社交性を求められたって困るのだ。

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人間関係の問題について書かれたこのあたりの記事を読んで、そんなことを思った。

人生は短い。好きでもない相手に気に入ってもらおうとするなんて時間の無駄だ。コミュニケーション能力がないことを思い悩むほうが、よほど精神衛生上よろしくない。そして何より、「努力」をして手に入れた人間関係はホンモノの絆ではない。下心に基づく人間関係なんてニセモノで嘘っぱちだ。

誰からも好かれる人は、誰でもいい人だ。

そんな交換可能な人間になるぐらいなら、身近な数人から「あなたでなければダメ」と言われたい。人から好かれる努力なんてする必要がないし、すべきではない。

1.人生は短い

人生はそんなに長くない。たとえばいま20歳の人の平均余命は、男性で59年、女性で66年だそうだ。日数でいえば2万日ちょっと。その一方で、日本には20歳の人が130万人もいる(2009年時点)。つまり自分とタメ歳の人だけに限っても、毎日65人ずつ新しい人と出会わなければすべての人と知り合いになれない。まして「誰とでも仲良くなる」なんて不可能だ。

私たちは限られたクラスターのなかで生活している。

たとえば東京都に暮らす人のうち、10人に1人は外国人だ。あなたがもしも東京都に暮らしていて、まんべんなく人間関係を構築しているのなら、あなたのケータイの電話帳は10人に1人が外国人にならなければおかしい。が、実際にはそうでない人のほうが多いだろう。まんべんなく人間関係を作るなんて現実には不可能で、私たちはどこまでも分断されている。

先日、GREEの田中社長がこんなツイートをして物議を醸していた。いわく「よく『GREEって、偏ったこういう人が使ってるんですよね?』とか『GREEとか使っている人見たことない』とか言う人がいる。日本で3000万人も使っているので、とある特定の層が3000万人いるのか、自分が日本の特定の3000万人と接しない生活をしているのか、考えるといいと思う。」だそうだ。しかし、均質で均等な人間関係を作るのはそもそも不可能なのだから、GREE利用者と接しなくても何の不思議もない。

参考)

3000万人の会員数を誇るGREE利用者があまりにも回りにいないので調べた結果、本当に住む世界が違ったという話

人生はあまりにも短く、人はあまりにも多い。もしもあなたがいま人間関係に問題を抱えているのなら、あなたの人間性に問題があるのではなくて、周囲の環境に問題があるのかもしれない。自分の属する共同体を自由に選べる社会を私たちは目指さなければいけないし、あなたはもっと居心地のいい仲間を探すべきだ。

人から好かれる努力をするぐらいなら、居場所を変える努力をしたほうが効率的だ。

2.好かれなければならない、という強迫観念

人から好かれたいと思うのはごく自然な感情だ。嫌われるよりも、ずっとマシだ。そういう気持ちを持つのは、私たちが社会的な動物として進化してきた証拠である。しかし、「人から好かれる」ことが就職や昇進に――生存に関わるようになると話が変わる。人から好かれたいという純粋な気持ちが、好かれなければならないという強迫観念に変わってしまう。

(就職したいから)人から好かれたい。

(昇進したいから)人から好かれたい。

(お金が欲しいから)人から好かれたい。

そんな枕言葉をつけてしまうのは、ハッキリ言って不幸だ。

シロクマ先生が面白い分析をしている。ビジネス本や就活本に登場する「コミュニケーション能力」という言葉は(当たり前だけど)心理学的な定義はない。どちらかといえば外国語能力や調理能力のような「技能」と見なすべきだ。そう考えた場合、コミュニケーション能力なる技能を身につけるには何年ぐらいのトレーニングが必要だろうか。

「コミュニケーション能力」をちょっと解剖してみる

シロクマ先生の分析では「5年」だそうだ。笑ってしまう。自動車免許なら半年もあれば取れるし、簿記なら人によっては1ヶ月で2級に合格できてしまう。それに比べて、5年があまりにも長い。医師免許の取得に必要なのが6年だったっけ? コミュニケーション能力を身につけるのは、それこそ医者になるのと同じぐらい時間がかかるのだとシロクマ先生は言う。

定義のあやふやな「コミュニケーション能力」を身につけて得られるものは、その5年に見合うほど素晴らしいモノなのだろうか。

あなたはまだ、この世界に生きている人たちのほんの一部としか出会っていない。あなたの見ている「普通の人たち」が、世の中の平均からみたら全然普通じゃないかもしれない。ならばコミュニケーション能力を求めて5年を棒に振るよりも、あなたの居心地のいいコミュニティを見つけることに努力を向けたほうがいいのではないか。

人から好かれたいという素直な感情は、お金が絡んだ瞬間に強迫観念へと変わる。人から好かれなければならないと信じてしまった時に、すんなりと環境に馴染めればまだいい。そうでなければ「我慢の時間」が5年も続くのだ。そんなの精神衛生上、好ましいとは思えない。

3.まやかしの人間関係

どんな理由があれ、自分をいつわるのは不幸だ。自分にうそをつきながら「良好な人間関係」を作れたとしても、そんなものはまやかしだ。なぜなら周囲の人は、うそのあなたしか見ていない。本当のあなたには興味すらない。人が深く関われる他人の数は限られている。良好な人間関係とは、つまり表面的な人間関係のことだ。

先日、某電子器機メーカーで働いている友人と話をした。職場の支店長が病気で急逝したという。

その会社は典型的な日本型企業だ。それこそ休日には運動会があって、家族ぐるみの付き合いを強いられる。飲み会を一回断っただけで職場にいづらくなる。そんな昭和からタイムスリップしてきたような会社だという。社員同士が強い絆で結ばれていると、少なくとも私の友人は信じていたらしい。そして職場の支店長は人望が厚く、誰からも好かれていた。

しかし彼の職場では30秒の黙祷をして、それだけだった。

彼の職場が冷たいとか情に薄いとか、そういうことを言いたいのではない。職場での人間関係なんてそんなものだ。一瞬だけ死を悼んだら、あとはいつも通りの日常業務に戻る。それが正しいサラリーマンのあり方だ。どんなに日本企業的な――ウェットな人間の感情で運営されている会社であっても、組織である以上、誰か一人が欠けたぐらいでは何の支障も出ない。仕事におけるサラリーマンは、交換可能な歯車でしかない。業務上も、人間関係においても。

そんなものは本当の「絆」ではない。

私が思うに、「絆」の条件はたった一つ。「あなたがいなければダメ」と言えるかどうかだ。その人をまるで自分の一部のように感じ、その人のいない人生なんて想像できないと言えるかどうか。それが「絆」の条件だ。職場におけるサラリーマンの立場とは真逆なのだ。その支店長の不幸に涙した同僚も、もちろんいただろう。だけど、仕事がうまく進まなくなるとか大事な案件の相談ができなくなるとか、そんな理由で泣くわけがない。涙の理由はいつだって職場の外にあるのだ。

胸に手をあてて、少し考えてみてほしい。

もしも今あなたが死んだとして、いったい何人が泣いてくれるだろう。職場の人たちはどうだろう。クラスメイトはどうだろう。一生の友情を誓ったかつての同級生たちはどうだろう。いったい何人が、「あなたがいなければダメ」と言ってくれるだろう。親や兄弟姉妹、結婚相手は、果たして泣いてくれるだろうか。絆とは、誰かをまるで自分の一部のように感じることだ。そんな誰かが死ぬのは、体の一部をもぎ取られるようなものなのだ。だからこそ私たちは涙を流す。その人のために時には命さえも投げだそうとする。そういう相手と巡り会えた人は、それだけで幸福だ。出産を終えたばかりの母親がなぜあんなに幸せそうな表情を浮かべるのか:そういう相手を産み落としたからだ。

今の社会で求められるという「コミニュケーション能力」は、そんな絆を生み出すのにはあまり役に立たない。上っ面の人間関係を取り繕うのには便利かも知れないが、深い絆は作れない。自分をいつわるのは不幸だ。しかし深い絆を誰かと結ぶことができたら、それだけで人は幸せを感じる生き物なのだ。

誰からも好かれる必要はない。

あなたが死んだ時に、泣いてくれる誰か。あるいはその人が死んだときに、あなたが涙する誰か。そういう誰かとの絆を深く、強固なものにするべきだ。たとえ世界中の人から嫌われたとしても、そんな強い絆で結ばれた相手が一人でもいる人は幸福なのである。私たちはそういう相手を見つけるために人生を使うべきであって、愛想笑いの練習に時間を浪費すべきではない。

誰からも好かれる人は、つまり誰でもいい人なのだから。

国際化が進んでいるからという理由で、子供に外国風(というか欧米風)の名前をつける親たちがいる。目が細くて面長な典型的日本人顔をしながら、名前が真理亜だったり真池流だったり――。実際にそういう名前をつけられてしまった人には申し訳ないけれど、正直なところ噴飯ものだ。一方、知人のムサシくんは外国人留学生から大人気だ。吉川英治の描いた宮本武蔵は、世界的に人気があるらしい。

国際化ってのは、つまりそういうことだ。

世界標準(と勘違いした欧米標準)に自分たちを合わせるのではなく、多様化する文化や価値観のなかで自分たちのアイデンティティをしっかりと発揮することなのだ。私の本名は純和風で、なおかつ日本語初学者が必ず学ぶ単語の一つになっている。そのせいか、外国人に自己紹介をしたらまず忘れられることはない。この名前をつけてくれた親には感謝している。

コミュニケーション能力も、そういうものなのだと思う。

グローバル化する時代だ。気さくな米国人やディベート慣れした欧州の人々、あるいは交渉に強い中国人たちと、私たちは同じ土俵のうえで生活している。日本人はシャイだというけれど、それではダメだ、強いプレゼンスとコミュニケーション能力を身につけるべきなのだ――と、アドレナリン濃度の高い人たちは言う。世界標準のマインドセットをインストールすべきだと鼻息

荒く訴える。

だけどそれが本当のグローバル化なのだろうか。

私たちはどこまでも日本人で、心の根底には「日本人らしさ」が流れている。私はいつも日本的な経営や、日本人の横並び大好きの気質をdisっているけれど、そんな私でも海外出身の友人と喋っているときには感じずにはいられないのだ:私は日本人なのだと。この国の文化に染まり、この国の言葉を血肉にしている人間なのだと。

シャイでいいじゃないか。

人見知りのなにが悪い。

簡単なことですぐに鬱病になって、そのくせ満員電車に耐えられるほど我慢強くて。それが私たちなのだ。うわっつらのコミュニケーション能力を身につけて何になる。誰からも好かれるようなつまらない人間になるぐらいなら、もっと大切なものを見つけたい。

「あなたでなければダメ」という相手を見つけたい。

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