浄土真宗の僧侶が親鸞を語ること

松本紹圭です。写真は、京都の自宅の近くを臨済宗のお坊さんが托鉢で通りかかった際、娘と一緒に志をあげたところです。托鉢って、出会うと嬉しいですね。

松本紹圭です。

写真は、京都の自宅の近くを臨済宗のお坊さんが托鉢で通りかかった際、

娘と一緒に志をあげたところです。托鉢って、出会うと嬉しいですね。

本日、慶應大学の『福澤文明塾』の講義でお話しさせていただきました。

光明寺の本堂を会場とした特別講義でしたが(三田から歩いて来れますし)、

いちおう大学の講義なので何かフレームを設定したほうが良いと思い、

「日本人の死生観とリーダーシップ」というタイトルにしましたが、

ふたを開けてみれば、親鸞さんの話をたくさんしている自分がありました。

ずばり「仏教・親鸞」というタイトルでも良かったのかもしれません。

私はこれまで新卒?で、13年ほど坊さんをやってきました。

いちおう私の僧籍は浄土真宗本願寺派にありますので、

所属寺である光明寺や浄土真宗のお寺に呼ばれたときには

親鸞さんのお話しをしてきましたし、

ときたま他の宗派のお寺に呼ばれたときには、より通仏教的なお話しや、

大きな枠組みでのお寺論をお話しすることが多かったです。

あるいは、学校や公共の講演会などに呼ばれれば、

「仏教とリーダーシップ」とか「仏教と日本人の死生観」とか、

より特定の宗教・宗派性を薄めたテーマでお話ししていました。

つまり、それなりに自分の所属・属性を意識しながら、

公共性の高い場では「布教」になってはいけない、

というふうに職業倫理のようなものを持ってきたということです。

でも最近、いろんな地域のいろんな宗派のお寺とご縁を持つようになり、

さらに、行政や企業やフリーランスやさまざまな生き方をする人たちと

交流するようになっていくうち、そして仏教を学んでいくうち、

自分自身の所属や肩書きに対する捉われや先入観が消えてきました。

そうして今回、福澤文明塾の皆さんに何をお話ししようかと

考えて考えて、新幹線でもまだ考えて、その場に立ってもまだ考えて、

話しはじめてみると結局、自分が一番したかったのは仏教の話、

親鸞さんの話なんだなということがよく分かりました。

端から見れば、浄土真宗のお寺で、そのお寺のお坊さんが熱心に

「仏教ってこんなに面白いんですよ」「親鸞さんってほんとにすごいと思うんです」

なんていう話をする風景は、当たり前のように見えるかもしれませんが、

これは少なくとも私にとって、案外できそうでできないことというか、

成立させようと思ってもなかなか成立しないことでした。

でも、それが、13年の間にたぶん2周くらいして、

ふつうにできるようになりました。

相変わらず僧服を来て浄土真宗の袈裟をつけて話をしていますので、

見た目にはまったく違いが分かりませんが、

「僧侶だから仏教の話をする」「浄土真宗だから親鸞の話をする」のではなくて、

「何者でもない私が、好きだから、伝えたいから、仏教の、親鸞の話をする」のは、

事態としてはやっぱり全然意味が違うのだと思います。

もうこれからは、余計なことは考えず、

講演タイトルは「仏教」とか「親鸞」とかでも良いのかもしれませんね。

さて、今あらためて、親鸞さんが気になっています。

「非僧非俗」という生き方に共感を覚えます。

僧に非ず、俗に非ず。

じゃぁ一体、あなたは何なの?と聞きたくなりますが、

沈黙の聖者ラマナ・マハルシが言うところの、

人間が持ちうる問いの中で最も宗教的な問い「私とは何か」に、

まともに向き合い続けたからこそ、行き着いた生き方なのでしょう。

私などは、つい安易に収まりのよいところへ自分を片付けたくなる

気持ちが起こりますので、親鸞さんの生き方は尊敬します。

最近、私の中で、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることが、

自分の本当の名前を呼ぶことなんだと、知られるようになりました。

凡夫ですから放っておくとすぐに自我が肥大化したり、

自我を固定化したくなったりしますが、

それはつまり、「松本紹圭という名前の私」にいろいろなものを紐付けて、

幻の安心を束の間、得ようとしているのです。

仏教が説くところでは、そのような「私」は幻想ですよ、

不変なる主体としての私などは存在しないのですよ、ということですが、

しかしいくらそのことを理解したつもりになっても、

私の意識には手強い慣性力が働いていますから、

走っていたクルマがすぐに止まれないように、簡単には止まりませんし、

まだ燃料は残っていますから、再び加速することだってあります。

南無阿弥陀仏と念仏を称えるということは、親鸞さんによれば、

確かに私の口において称えているのだけれど、

それは同時に、阿弥陀仏の働きによって「真実の名」を

称えさせられているんですよ、と受け止められます。

つまり、念仏するという行為によって、

私が念仏しているのか、

誰が念仏しているのか、

私が念仏していると思っている私とは誰なのか、

という問いが目の前に突きつけられることになります。

その結果、放っておけばすぐに陥る自我意識の幻惑にブレーキがかかり、

酔いから目を覚まし続ける「念仏と共にある生き方」が生まれてきます。

最近話題の仏教3.0において「誰が瞑想するのか」という

瞑想の主体が主題化されていますが、

法然さんが開いた念仏の道において、

「誰が念仏するのか」

という問いを主題化したのが親鸞さんなのだと思います。

このことは10年以上前、私が得度をして間もない頃はまったく意識していませんでしたが、

図らずも、稀に自分が書いた本などにサインを求められる際、

「座右の銘をぜひ書いてください」という方が少なくないので、

特に座右の銘を持たない私は「とりあえずこの言葉を書いておけば間違いないだろう」と、

これまでサインを書くときは必ず中心に「南無阿弥陀仏」をまず書き、

自分の名前はその横に添えるようにしてきました。

その作戦は結果的に間違っていなかったようで、

自分の名前を脇に置きながら、本当の名前として「南無阿弥陀仏」を書くことに、

最近は喜びを感じています。

また、日常においても相変わらず放っておけば「自分が、自分が」という自我が

頭をもたげて来ますが、そんなときに「南無阿弥陀仏」と称えながら、

「念仏するのは誰か? 自分が、自分が、と言っているその自分とは何者か?」という

問いを思い出せば、自我の立つ瀬も無くなって、肩の力が抜けてきます。

このような念仏のはたらきは、

「南無阿弥陀仏」が自分の本当の名前であると「信じる」のではなく、

「南無阿弥陀仏」が自分の本当の名前であると「知られる」ことによって起こります。

親鸞さんが「信心とは信じる心ではなく、疑いの無い心のこと」と言っていますが、

ここでも「誰が何を信じるのか」という此岸からの問いが設定された上で、

そのような問いが発せられる起点にある主客二元的な視点が乗り越えられた

彼岸に定まる心として、信心が定義されています。

念仏において、(そしてきっと、他の瞑想においても)、

頓悟、漸悟は問題ではありません。

山下良道さんのお言葉を借りるなら、青空の視点。

親鸞さんのお言葉を借りるなら、真実の信心。

たった一度でも知られるべきことが知られた人にとっては、

きっと念仏を大事にする道の人だけでなく、瞑想家にとっても、

日常の最もハンディな瞑想法として、

念仏が大いに力になってくれるのではないでしょうか。

マインドフルネスが注目される中で、

ヴィパッサナー瞑想をはじめ、さまざまな瞑想法に関心が集まっています。

私も機会を見つけていろいろ試してみたいですが、

念仏道も自信を持っておすすめしたいですね。

いつでもどこでもどんなときでも力強く人生を支えてくれる念仏は、

鎌倉時代に起こった日本仏教のひとつのイノベーションだと思います。

瞑想が注目される時代なら、「瞑想法としての念仏」というテーマも

これから考えてみたいですね。

日本のお寺は、私なりに定義するならば、

「生きている意味を問い、生きているという経験を取り戻す舞台環境」

だと思います。

仏教のこと、ブッダのこと、親鸞さんのこと、

それ以外にも、趣味や興味のことでもいいし、思い出や悩みでもいい、

自分が大切にしていることを気軽に、気兼ねなく話せるような場として

皆さんに活用してもらいたいと思いますし、

これからの時代、人がお寺とどういうふうに関わったら幸せなのか、

私自身が実践していきたいですね。

(2014年11月8日「お寺の未来」より転載)