元広告会社勤務の私が、奄美の離島・請島と与路島で打ち砕かれた仕事観

鹿児島県奄美大島で一番驚いたことは、出会った人々の職業がみなマルチで、『本業』や『副業』といった線引きができないことだった。

鹿児島県奄美大島の、すぐ南にある加計呂麻島の、さらに奥にある請島と与路島には、それぞれ100名未満の人々が生活している。

鹿児島からは、夕方の船に乗り込み、朝方に奄美大島の南端の街・古仁屋に到着して、更に、古仁屋から昼過ぎに出る定期船に乗り、約1時間半から2時間で請島と与路島に辿り着くことができる。定期船は1日1便で、日帰りはできない。離島の中の離島という地域だ。

船での移動、きれいな海や見慣れない植物、トタン屋根の平屋やヤギ食の文化など、道中から様々な事象に驚かされたが(詳細はこちら)、中でも1番驚いたことが、出会った人々の職業がみなマルチで、『本業』や『副業』といった線引きができないことだった。

与路島で民宿を営む芳さんご一家は、民宿・畑作・畜産に加えて、旦那さんは水道管理の仕事を、奥さんは今は引退したがかつては給食の仕事を、息子さんは海上タクシーの仕事をしながら、古仁屋で暮らす家族の元と与路島で暮らす両親の元とを行き来する日々を送っている。

請島で区長を務める大里さんは、畑作・養豚・食品加工・店舗経営・ごみ処理などの仕事で、朝早くから忙しい。

島の暮らしは忙しいが、その忙しさはノルマを達成するためにあくせくする忙しさとは違う。どの仕事も暮らしに欠かせない仕事ばかりだからだ。

私たちは大きな社会の中で生活している。『食べる』行為を例にとっても、食料を生産する人、加工する人、運搬する人、宣伝する人、販売する人など、ひとつの分野を専業で行い、大きな枠の中で役割分担し合っている。そして、そのお陰で様々な食べ物を安定して口にすることができる環境を享受できている。

しかし、一連の流れの一部分を切り取った仕事にのめり込んでしまうから、おかしなことが起こり得るのではないか?

私はこれまでに出版や広告の分野で『広告収入を得るためのメディアの企画』や『お金を使わせてもらうためのプレゼン』などの業務に携わってきたが、請島や与路島での地に足が着いた筋肉質な働きに触れて、なんて贅肉たっぷりな働きをしていたのだろう、と思わざるを得なかった。

それなりに充実感を得られる仕事ではあったが、請島や与路島の人たちの働く姿と並ぶと、ままごとのようである。世の中の一部分だけの業務に徹していると、機能的で本質的な部分を見失いがちになってしまうのではなかろうか。

もちろん、全てが必ず機能的でなくていいし、モノやサービス、娯楽や芸術が溢れる社会は豊かだと思う。だけど、世の中に過剰なコンテンツを押し付ける業務に振り回されたり、追い詰められたりするようであれば、それは徒労以外の何物でもないように思う。

また、職業選択で迷ったら、『やりたいこと』以外に、社会や自分の生活に必要な仕事は何なのか?それに対して、『何ができるか』という視点を持ってもいいかも知れない、と思った。

(ということで、現在求職中です。)

消費社会は自由で、自給社会は不自由でもある

このような話題を持ち出す際に、必ず触れておきたいことがある。近年、『消費社会(都市生活)=不自由』『自給社会(田舎暮らし)=自由』だと信じる人をたまに見かけるが、そうきっぱりと二分できるものではないということだ。消費社会の方が自由だと言える部分がある。お金があれば何でもできるからだ。

母の実家は兼業農家であるが、広い敷地を持ちながらも、「近所の畑を荒らしてはいけないから。」という理由で、猫すら飼えないという。一方で、マンション暮らしなら猫が飼える物件もあるし、いざ旅行に行くとなれば、ペットホテルに預ける(というサービスを買う)ことが出来る。畜産などをしていたら、旅行なんてとても気軽に行けない。

どちらがどうだ、という話ではなく、極端に偏った方向にのめり込むと、おかしくなることがあるのだと思う。

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