もはや10年以上前の出来事ながら、毎日新聞とマイクロソフト社は2004年4月5日より、両社が持つニュース・サイト「毎日インタラクティブ」と「MSNニュース」を統合。新ニュース・サイトを「MSN毎日インタラクティブ」をスタートさせた。この新聞社とIT会社の提携を振り返り、今後のニュース・サイトについて考察したい(画像は2004年3月16日、毎日新聞朝刊から)。
それまで毎日新聞のサイトは、月間ユニーク・ユーザーは400万超と新聞社サイトの中でもトップを狙える位置にはなかったが、新サイトは一年目から1200万ユニーク・ユーザーと閲覧者数を大幅に増やし、新聞社サイト・ナンバー1の座に躍り出た。新サイトの売り上げも初年度に10億円を突破すると以降30億円まで急成長する成功を収めた(筆者の手元にある当時の資料による)。
2016年の今となってはインターネットの売り上げとして驚くに値しない額面ではあるが、2004年当時はまだYahoo! Japan全体の売上が初めて1000億円を突破したばかり。2014年度通期で4200億円を超える見込みの現在とは、差があった。
サイト規模としては、Yahoo!のほぼ半分、もしくはそれ以下だったMSNにとっても、ひとつのチャンネルの売り上げが10億円を超えたのは初めて。プロデューサーである私を含めニュース・チームはマイクロソフト社長賞を受賞。ワシントン州レドモンドにある本社からも賞を与えられたほどだ。
不幸なことに、残念ながらこの成功は長くは続かなかった。マイクロソフト社内体制の変更により、ニュース・バリューを理解しないマネジメント職を張り付けられたことにより、私自身が社を辞してしまったことも大きいが、2007年の更改時期に本契約が延長されなかったからだ。「Yahoo!ニュース個人」にも執筆している山本一郎氏など内情を知らないまま「失敗に終わった」などと見解を述べているため、ここにその真相を記す。
MSN毎日インタラクティブの契約が解消されたのは毎日新聞の社内事情による。当初、毎日新聞のデジタル部門の担当役員は、渡辺良行氏。しかし本サイトの成功後、常務となった渡辺氏は広告局担当に異動。代わって担務したのは、H氏。残念なことに渡辺氏とH氏は犬猿の仲。よって、H氏は渡辺氏の功績である「MSN毎日インタラクティブ」を葬ろうと画策。社内で毎日新聞とマイクロソフトの契約は「不平等条約」と触れ回り、2007年の契約解消に至る。
この一連の動向は、新聞社の将来のあり方を左右する残念な結果を導き出した...と私は見ている。IT関連社のノウハウを持ってニュース・サイトを運営、利益を最大化する...という道筋を閉ざしてしまったからだ。マイクロソフトとの提携を続けていれば、毎日新聞はマイクロソフトのプロパティを利用し、ニュースを配信し続けることができたはずだ。今ならウインドウズ10やウンドウズフォン、サーフィスなどに配信される唯一のニュース・ソースだったかもしれない。少なくとも、その将来性を潰した。
毎日新聞はその後、Yahoo!との関係強化に走るものの2008年に発覚した英字ニュース・サイトのコラム「WaiWai」上にて、低俗な内容、誇張や虚構に基づく内容の記事が掲載・配信された問題で、その関係も破綻。
一方のマイクロソフトも産経新聞から分社化された産経デジタルと提携するも、昨年10月に解消。MSNニュースは10年ぶりに、コンベンショナルなポータルニュース・サイトに戻ってしまった。MSNは2005年当時、インターネットユーザー数では2位の座を守るべく運営されていたものの、現在広告代理店が発表している「推定接触者数上位20」にさえ入っていない(2015年4月、ビデオリサーチ)。
旧メディアとWEBメディア、初の融合が忘れ去れるのは誠に忍びない。何しろ、毎日新聞の当該部署の方も把握していない。よって、本件の成り立ちについて以下に述べる。
2001年、MSNのニュース・プロデューサーに着任した際、MSNもYahoo!と同様、各ニュース・ソースのアグリゲーション・モデルに加え、ユーザーとのインタラクティブ性を重視した「MSNトピックス」、著者からのオリジナル記事を配信する「MSNジャーナル」を上乗せしていた。MSNジャーナルからは、田中宇、田口ランディなどがスピンアウトし、著作をリリースしている。私個人は、現在の「Yahoo!ニュース個人」は、十年の時を超えたMSNジャーナルのパクリだと考えている。
それでも「打倒、Yahoo!」という米国系外資らしいスローガンに「Yahoo!ニュースに追いつけ、追い越せ」と施策が急務となった。しかし、CNN勤務時さえ1日3交代制だったのが、当時ほぼほぼ筆者ひとりで24時間ニュースを監督し、バリューを判断しなければならなかった。筆者の就寝中は、大事件が発生したとしても、ニュースが更新されないケースもあった。さらにニュースを買い漁る予算を与えられたわけでもなく、ニュース担当を増員できるわけでもない。人、金、物がなく、頭を使うしかなかった。
そこで思いついたのが新聞社との提携だ。当時、まだ新聞社はWEBサイトに掲載するニュースを出し渋る傾向にあった。新聞紙面に掲載されるバラエティに富んだすべてのソースをWEBに開放することで、圧倒的なニュース・コンテンツを内包するソリューションに育つと考えた。
もちろん、それを具現化するにハードルは多く、そして高かった。今から振り返ると、中々愚かでさえあるが、21世紀がやって来た当初、旧メディアは「たかがインターネット」もしくは「ネットはメディアではない」と考える経営層で溢れていた。テレビ局も新聞社も社内のネット部門に配属されることを快く思わない社員ばかりだった。
しかし、そんな時代的背景に怯んでいる場合ではなかった。当時MSNは、読売新聞社からのニュース・フィードを独占していたため、まずは読売新聞と会話を試みた。大手町の旧読売新聞本社を訪れ、会議室に通された。こちらは私ひとり、読売側はデジタル部門から6人ほどが出席。MSNニュースと共同でニュース・サイトを運営する案をぶつけると、それぞれ6人はお互いに視線を向け「○○次長、どう思いますか?」、「××次長はそうお考えですか?」、「△△次長にも意見を伺いましょう」と身内の意見を求め合い、検討してもらえるのかどうかさえ把握できなかった。仕方なく「後日、お考えをお聞かせください」と読売本社を辞した。そして、それっきり読売新聞から連絡はなかった。
日経新聞からは「ニュースを自社サーバー以外にストアすることはない方針」と回答を受けた。日経はこの方針を今日まで貫き、新聞社間においては、デジタル施策でもっとも先を進んでいると考えられる。朝日新聞も当時は外部へのニュース配信をNGとしており、交渉の席に着くこともなかった。
当時から自社ニュースを積極的に外部にセールスしていた毎日新聞は、私との会議に3人の局次長が出席。「コブランドについて考慮する」とし会を終えた。後日、判明したことだが、局次長のひとりが先の渡辺役員に本件をレポート。渡辺役員は交渉の席に着くように指示した。
このプロジェクト、実は毎日新聞サイトとMSNニュースのユーザー重複がわずか12%に過ぎなかったという数字が強力に後押ししてくれた(2003年ニールセン調べ)。双方のユーザーを取り込み、ユーザー数が1.9倍となることを誰もが容易に想像できたからだ。
この後、毎日新聞とマイクロソフトは一年に渡る交渉を繰り返し合意に至った。この交渉の際、同じ日本語で会話しておきながら、新聞社とIT会社の間のプロトコルは理解できないほどかい離していた。筆者は毎日「日本語から日本語」の通訳をしている気分だった。
サイト構築を進めつつ、2004年3月の記者発表から同4月のサービス開始になんとか辿り着いた。手前味噌な点を含むとは言え、自身の手がけた仕事が全国紙の一面を飾ったのは、私にとっても人生で初めての出来事だった。
この記者発表後、ちょっとした逸話がある。
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