本日(米国時間4/19)発行された最高裁判所命令によって、Googleと米国著作家団体Authors Guildの間で10年以上にわたって争われてきた、著作権付き書籍を無断でスキャンすることの合法性に関する法廷闘争が終了した。最終決定は「公正使用」。
この命令は今日発行された他の命令の長いリストの一項目にすぎず、第2巡回控訴裁判所の2015年判決を黙示的に承認したこと以外に新たな議論はない ― 同判決は〈さらに古い〉2013年のニューヨーク南地区連邦地方裁判所の決定を承認したもの。つまり、ある意味でこれは古いニュースである。
2013年判決は、(図書館からその目的で提供された)書籍のスキャンは著作権違反ではなく、それは技術的な意味で「変革的」であるためだとした。書籍は転売等されるのではなく、新たに創造的な目的に使用される ― 絶版あるいは著作権切れになることの多い書籍のための検索エンジン。これは、原作品の「代替品」を提供するものではなく、実際には公共サービスであると共に、著者に新たな読者を提供するというGoogleの主張を裁判所が認めた。
控訴裁判所はその決定を適切であると判断し、今回最高裁判所は、少なくとも、審議を拒んだ。これは問題がないと言うのと同等である。
当然ながらAuthors Guildは激怒している。エグゼクティブ・ディレクターのMary Rasenbergerがプレスリリースで厳しく非難している:
公共の利益の議論に目がくらんだ第2巡回裁判所の裁定は、著作者ではなくGoogleが、書籍のデジタル化による収益を得る権利をもつとしている ― この短期的な公共利益は、アメリカ文化の将来の活力を犠牲にするものだ。
その罵りの論調は、公正使用の判断を当然と捉える人々にとっては驚きだろうが、Rasanbergerは、さらに広く哲学的観察を思考材料として提供した。
著作家は今でも米国で最も低報酬の労働者である。もし将来の著作家が自分の仕事で生計を維持できないなら、著述業に就けるのは、個人的に裕福であるか、資金援助を受けた者だけになる。
最高裁による審査の拒否は、クリエイティブ分野からIT分野への、膨大な富の再分配が行われていることを改めて証明するものであり、それは書籍だけでなく、芸術のあらゆる分野にわたる。
この件は、文学、音楽、ビジュアル等の芸術の創造と配布に対して、テクノロジーが与える効果と損害についての、現在進行中の議論をさらに熱くするだろう。私が思うに、この裁定は正しいがそこでは答えられていない難題がある。今日の著作権法はひどく欠陥のあるシステムであると言わざるを得ないが、創造活動を法的に保護することに反対する人はいない。
しかし、現在とわずか数年前とでも、全く状況が異なることを認識していない著作権法(あるいは訴訟)は、崩壊の運命にある。その意味で、著しく進歩的な概念を伴う取り組みは、法的監視と妨害を受けることが多い。残念ながら、どの取り組みも10年にわたる法廷闘争に耐えられるわけではなく、無数のプロジェクトがこく初期段階で漬されてきた。
Authors Guildは、Googleの見張り番として「戦い続ける」ことを約束する(ただしGoogle Booksプロジェクトは一時ほど活発ではない)一方、大規模オンライン配信とインデクシングの独自のソリューションを追求する。
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(翻訳:Nob Takahashi / facebook)
(2016年4月19日TechCrunch日本版「米最高裁、Googleブックスの書籍スキャンを公正使用と認定」より転載)
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