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2015年12月19日 02時33分 JST | 更新 2015年12月19日 02時33分 JST

「見てもらいたい」は、きっと複数のモチベーション源に支えられている

「見てもらいたい」気持ちは、うまく働けば実力以上の力を引き出してくれるけれども、人を萎縮させ、足を引っ張ることもある難しいものです。

羽生結弦選手と「承認欲求」 - いつか電池がきれるまで

読みました。

 

羽生選手、すごいですよね。スケート上での演技はもちろん、「見てもらいたい」という気持ちを持ちながら「怖さ」を超克するのも大変なことです。

 

「見てもらいたい」気持ちは、うまく働けば実力以上の力を引き出してくれるけれども、人を萎縮させ、足を引っ張ることもある難しいものです。スポーツ以外の世界でもそうですが、「見てもらいたい」気持ちに“負けて”どれだけたくさんの人が涙を呑んできたことか。

 

「見てもらいたい」「認められたい」といった気持ちを生かせるか殺せるかは、さまざまな要素に左右されます。

 

たとえば、まだ若い選手が声援を味方につけて大活躍することがあります。ところが同じ選手が実績を重ねるうちに「見てもらいたい」気持ちが重荷になり、実力が発揮できなくなってしまうことも珍しくありません。

 

「見てもらいたい」気持ちをプレッシャーと感じず、モチベーション源として味方にし続けられる人こそが、ショービジネス界のスーパースターになれるのでしょう。それはそれで天才的素養ですし、羽生選手などは、スケートの技量だけでなく「見てもらいたい」気持ちのコントロールも超一流なのだと推察します。

「見てもらいたい」習熟度

そうした承認欲求の適切なコントロールや応用力は、一体どのようにして身に付くのでしょうか。

 

先天的な素養によるところも大きいでしょう。でも、それだけとは思えません。

 

くだんの羽生選手なども、とても承認欲求に“習熟”していると思うんですよ。

 

これまでも彼は「見てもらいたい」気持ちを抱き、それが充たされるという好循環をたくさん経験しているでしょうし、たとえ充たされない場面があってもまた頑張って充たされる……といった経験も積み重ねてきたはずです。

 

世界の頂点に立った選手ですから、当然といえば当然かもしれません。しかし、そういう積み重ねを経て、みずからの「見てもらいたい」気持ちがこなれているからこそ、「見てもらいたい」気持ちが“乗るか反るか”の瀬戸際をうまく綱渡りできるのではないでしょうか。

 

これは、ただ場数を踏めば良いというものではありません。いくら場数を重ねていても「見てもらいたい」気持ちが「見てもらわなければならない」気持ちになってしまったらプレッシャー確定です。羽生選手クラスともなれば、「見てもらいたい」気持ちが「お前はたくさんの人に見てもらって評価されなければならないんだぞ」的なプレッシャーに変成しにくいよう、巧みに育てられてきたのでしょう。

 

反対に、「見てもらいたい」気持ちに「見てもらわなければならない」的な雑味が混じりやすい人の場合は、スポーツであれ、学芸であれ、檜舞台に向かって突き進むのが大変です。世間一般にはあまり認知されていないけれども、これは厄介きわまりないハンディキャップです。

 

ということは、たとえば子育ての場面では、子ども自身に「見てもらいたい」気持ちに慣れてもらうこと、つまり承認欲求に慣れてもらうことが大切ではないかと思います。慣れていない人間が急に「見てもらいたい」「認めてもらいたい」気持ちを充たしたいと思っていても、ボロが出たりプレッシャーに負けたり、なかなか大変だと思いますから。

 

くわえて、子どもの承認欲求が承認不安に転じてしまわぬよう、あるいは「見てもらいたい」気持ちが「見てもらわなければならない」気持ちになってしまわないよう、養育者側にはあれこれ工夫の余地があるのだろうと思います*1。

承認欲求の脇を固める要素

 

ただし、彼のような大選手って承認欲求だけにモチベートされているわけではないのでしょうね。

 

ひとつには、求道心や好奇心。限界ぎりぎりに挑戦したい探究心。モチベーションの源が承認欲求だけの人は、どうしたって承認欲求の顔色を窺わなければならなくなるわけで、それでは大成しないでしょう。他人から「見てもらいたい」気持ちばかりモチベーション源にしている人は、「見てもらえない」期間に根気が続かなかったり、「すぐに見てもらえる」修練に努力が偏ったりしまうため、時間をかけて地力をつけるには不利です。

 

もうひとつは、所属欲求。

 

人間関係にまつわる欲求には、自分自身が注目されたい・褒められたい【承認欲求】だけでなく、仲間意識を持っていたい・同じグループの一員でいたい・師匠や弟子とともにありたい的な【所属欲求】もあります。個人主義の浸透した現代社会では、人間関係のモチベーション源というと、つい承認欲求を思い浮かべてしまうかもしれませんが、人類史を振り返ってみると所属欲求の重要性はそれに勝るとも劣りません。

 

で、承認欲求って、それ単体をモチベーション源にしている時よりも、所属欲求もモチベーション源として利用できる時のほうがずっと安定するように思うんですよ。

 

自分自身が注目されたり褒められたりしてモチベーションが得られるだけでなく、自分が所属するチームへの仲間意識だとか、師匠筋~弟子筋への親近感やリスペクトだとか、そういったものからもモチベーションを得られる人のほうが、毎日の修練を続けやすく、モチベーションの浮き沈みも小さくできると思うんです。承認欲求がモチベーションになって伸びやすい修練と、所属欲求がモチベーションになって伸びやすい修練にも、いくらかの違いがありますし*2。控え目に言っても、片方の欲求に依存せずに済むし、どちらか一方が機能不全の時も心理的に停滞せずに済みます。

 

だから私は、「見てもらいたい」気持ちの強いキャラクターが何年もメディア上で巧く立ち回っているのを眺めていると、いつも思うんですよ――「ああ、この人はきっと承認欲求の大ベテランなだけでなく、どこかで所属欲求を充たしたり、好奇心や探究心に支えられたりしているんだろうなぁ」――って。

 

羽生選手なんかも、きっと承認欲求の扱いに慣れているだけでなく、それ以外のいろいろが彼を支えて、それらの総合として、大舞台でも「見てもらいたい」気持ちを味方につけることができているんだと思います。案外彼は、承認欲求だけでなく所属欲求の面でも、自分の気持ちを取り扱うのが上手な方だったりしませんかね?

 

 

モチベーションは一点集中させちゃいけない

 

ともあれ、「見てもらいたい」をはじめ、承認欲求とは悩ましいものです。訓練が足りない承認欲求はしばしば要求水準が吊りあがるし、承認欲求を求める対象が限定されていたり、承認欲求ばかりをモチベーション源にしたりすれば、しばしば依存や不安に陥ってコントロール困難になってしまいます。

 

所属欲求にしても、たとえば「会社の看板」や「自分の所属する宗教」だけをよりどころにしてしまうと、やはり依存や不安が先だってしまい、モチベーション源として取り扱いきれなくなってしまうようにみえます。

 

人間のモチベーションって、一点集中させると歯車が狂いやすいと思うんですよ。

 

インターネット上で承認欲求地獄に陥っている人達にしても、「見てもらいたい」欲求の習熟度やネットリテラシーに問題があるだけでなく、承認欲求/所属欲求/探究心などのモチベーションのバランスが悪い人が多いように見受けられます。巷で批判されがちな“承認欲求(笑)”にしても、その多くは、所属欲求や探究心や好奇心が欠落した、やたら承認欲求だけ突出した人がターゲットになっているようにみえるんですよ。

 

もし、承認欲求や所属欲求とうまくお付き合いしていきたいなら、どちらか一方だけに頼りすぎず、モチベーション源として両方を利用できるよう、できるだけ習熟しておくことではないでしょうか。もちろん、探究欲や好奇心、創作意欲といった、人間関係とは直接関係のない欲求も大切にすべきでしょう。このあたりは個人差の大きな領域だとは思いますが、メインのモチベーション源にしている欲求だけでなく、ほかの欲求にも目配りしておいたほうが、依存や不安に陥りにくく、常に前を向いて生きやすいはず。

 

実際、世間一般でふつうに上手く生活している人達って、承認欲求onlyでも所属欲求onlyでも探究心onlyでもないじゃないですか。

 

そうやってモチベーションのよりどころを数か所に分散させたうえで、それぞれの習熟度を高めていくようなやり方が、自分自身のモチベーションを転がしていく王道ではないかと私は思います。

*1:そのために何が必要なのかについては、それだけで長文になってしまうので今回は省きます。

*2:例:承認欲求をモチベーション源とする修練は、自分が褒められやすい分野をさらに伸ばすのに適していますが、所属欲求をモチベーション源とする修練は、ライバルや師匠筋から何かをコピーするのに適しています

(2015年12月18日「シロクマの屑籠」より転載)