なにごとも、単純な二分法はあまり良くない。それでも、人間の行動原理の一側面を数直線の上にのせて、程度問題を論じることで理解が捗る場合もある。
例えば、個人の動機付けについて。不安や緊張に駆り立てられているのか、それとも欲求に駆り立てられているのかを数直線の両端に位置付けて考えてみると、なかなか面白い。
わかりやすいところでは「缶詰を買う」という行為。ほとんどの場合、金銭をわざわざ支払ってまで缶詰を買うという行為は、当然、その缶詰の中身を食べたいと欲求した結果と考えられる。けれども、東日本大震災から数日後に全国各地でみられた"買い物騒動"の際には、欲求に駆られてではなく不安に駆られて缶詰を買い占めた人は少なくなかったはずだ。あの頃は、缶詰以外にもたくさんのものが不安に動機づけられた結果として買い占められた。
買い物以上に「不安か、欲求か」問題が露出しやすいのは、人間同士のコミュニケーション場面だ。そういう場面では、個人の行動は、意外なほど不安や緊張に基づきやすい。例えば、誰かに認められるための行為にしても、表面的には「承認欲求」「所属欲求」に該当しそうにみえて、その内実が「嫌われたくない」「嫌な顔をされたくない」「見捨てられたくない」といった、不安に動機づけられた行為である場合は少なくない。
「どんな異性を好きになるのか」に関しても、似たようなことがしばしばみられる。自分にとって望ましい特質を備えた異性を好きになるのか?それとも自分を脅かす不安を招かない異性、脅かされる懸念の少ない異性を好きになるのか?たいていの場合、異性を好きになる動機はこれらの混合物であり、不安が全てという人も、欲求が全てという人はまずいない。しかし、欲求が強く勝る人、不安が強く勝る人といった個人差はある。
一般に、「不安か、欲求か」は、自分では気づかない場合でも他人からはよく見える。
ただし、自分自身が「不安か、欲求か」のいずれかに極端に傾いていて、修正の余地が乏しいような場合*1に関しては、その極端に傾いた視点が他人をまなざす際にも大きなバイアスを与えてしまうため、どちらか一方の欲求しか意識されない、という事が起こり得る。欲求と不安、両方にそれなり衝き動かされる個人のほうが、"他人の庭がよく視える"可能性は高いと思われる*2。
そして、自分の庭はというと――殆どの人にとって視えづらい。もちろん私も、自分自身の欲求や動機を把握している自信は無い。ただ、他人の挙動をみている限り、私だって欲求だけでなく不安によって衝き動かされているとは想像のつくところだし、後付け的に、そういう痕跡を見つけることもある。そういう気づきに際して、「なるほど」と思うこともあるし、「しまった」と思うこともあるけれども、なんにせよ、人間を駆り立てる原動力はさまざまだなぁと詠嘆はしたくなる。
*1:や領域
*2:一般に、極端な人間には極端な世界しか視えないし、極端な人間は極端な世界しか生きられない。
(2014年12月6日「シロクマの屑籠」より転載)