ハンセン病が完治できる病気になったとはいえ、まだまだ多くの患者たちが有効な治療を受けられないままにいます。
私が代表を務めている日本財団の活動は多岐にわたっていますが、1967年から本格的にハンセン病の問題に取り組み始めました。当初はアジアを中心とする活動でしたが、1974年に笹川記念保健協力財団を設立、同時期に、WHO(世界保健機関)に対してハンセン病制圧のための資金提供をスタートしました。その一部は天然痘対策にも使われ、1979年のWHOの天然痘根絶宣言に至る活動でも一定の役割を果たしました。1975年から現在まで、WHOのハンセン病対策予算のほとんどは日本財団から拠出されています。
ハンセン病との闘いを大きく変容させたのは、治療薬の開発であり、とりわけ1981年に登場した多剤併用療法(Multi-drug therapy:MDT)の効果は絶大でした。このMDTの開発を受け、WHOは1991年に、公衆衛生上の問題としてのハンセン病の制圧、すなわち1国あたりの患者数を人口1万人に1人未満とすることを、2000年までに達成すると宣言しました。HIVやマラリアに比べ、ハンセン病に対する各国のプライオリティが低い中、WHOによる制圧目標の提示は画期的でした。
しかし当初、WHOからは目標達成のための具体的方策は提示されませんでした。WHOも、MDTを使えば患者は確実に治ることはわかっていたのですが、WHOは各国にアドバイスはできるものの、資金不足から第一線に立って制圧活動を展開することはできません。また、世界の総人口の3割が1日1ドル以下の生活をしている状況で、医者を探し、薬を買うお金を手に入れることは、ほとんどの患者にとって不可能に近いことだったのです。
そこで私はNGOとして何ができるかを考えました。日本財団による薬の無償提供というアイデアを検討し、1994年にベトナムのハノイで開催された世界初の「ハンセン病制圧国際会議」で、1995年からの5年間に5000万ドルの資金を提供し、MDTを世界中に無償配布することを発表しました。会場からはどよめきが起こり、やがてそれは大きな拍手にかわりました。その拍手は私に大きな勇気を与えてくれました。そして、このとき、自分自身がハンセン病との闘いの最前線に立ち続けることを、あらためて覚悟したのです。
また、薬の無償配布という具体的な提案によって、関係者全員が制圧目標達成にリアリティを持つようになりました。私は、薬の無償配布には、さらに副次的効果もあると考えていました。各国政府は、薬の購入という負担から解放されるため、その予算を患者を探し出すためのヘルスワーカーやソーシャルワーカーの人件費に割り当てることができるはずです。人里離れたところに住む人々や、移動生活をしている人々の中から患者を見つけるには、多大な労力が必要なのです。ハンセン病の救済活動を行っているNGOも、患者にとって必要な整形治療や義足製作などに予算をまわせるようになります。実際、この会議以降、世界中のハンセン病制圧活動は、急速に活発化していきました。
1995年はハンセン病の歴史の中で、その制圧に向けて大きな一歩を踏み出した記念すべき年になりました。同年から1999年までに、200万人の患者が治癒したと推定されています。残念ながら2000年の制圧目標は達成されませんでしたが、1985年時点で122か国あった世界の未制圧国は、2000年には11か国となり、2011年にはブラジル一国を残すまでになりました。2000年以降、MDT無償提供はノバルティス財団によって引き継がれ、1980年代から現在までに、世界の患者数を95%減少させることに成功しています。病いとしてのハンセン病の制圧は、目前にまで迫っていると言っていいかもしれません。しかしハンセン病をめぐる問題は、それほど単純なものではありませんでした。