日本財団では、1962年の設立当初(当時の名称は日本船舶振興会)からハンセン病の問題に取り組んできました。私自身も40年以上にわたって活動を続けています。
10年ほど前のことです。ビル&メリンダ・ゲイツ財団の担当者が、私たち日本財団を訪れたとき、次のような質問を投げかけられました。「あなたのところでは、ハンセン病以外の病気には関心がないのですか?」
日本財団は、公衆衛生の分野では、NTD(顧みられない熱帯病)のオンコセルカ症やブルーリ潰瘍などの問題にも取り組んでいますが、確かに私たちの活動は、特にハンセン病に主軸を置いたものとなっています。私はビル&メリンダ・ゲイツ財団の方に、日本財団は、広く世の中を見渡して、人々の気づきにくい問題を探し出し、焦点を絞って活動することが得意であることを説明しました。彼は、それは正しいやり方だと納得してくれました。潤沢な予算を投じても、多くの問題に関わりすぎると具体的な成果があがりにくい、ということを彼も実感していたようです。
それは、日本財団がハンセン病の問題に大きな力を注いでいる主な理由にほかならないのですが、もう一つの重要な理由があります。それは個人的な想いに根ざしたものです。
日本財団の創設者でもあった私の父、笹川良一は、大阪の豊川村(現箕面市)で生まれ育ちました。ティーンエイジャーになった父には、密かに恋心を抱いていた少女がいました。その少女がある日突然、村から姿を消したのです。後からわかったことですが、少女はハンセン病を発症していました。当時の日本では、ハンセン病患者が出ると、その家族や一族までが差別の対象になりました。彼女は、自身の将来に絶望し、家族を守るために家出を決意し、発病の事実が周囲に知られる前に、自ら消息を絶ったわけです。
父は大きな衝撃を受け、病気になっただけでその存在を消し去らなくてはならないという理不尽に対して憤りを感じました。そして「将来、きっとハンセン病をやっつけてやる」と決意します。現在の日本財団によるハンセン病への取り組みの背景には、そんな想いもあるのです。
父は、1962年に財団を設立して、1967年にはインドのアグラのハンセン病病院を訪問。そこに新しい施設を寄付することから、ハンセン病をめぐる活動を本格的にスタートさせました。その後10年余りの間に、8か国に14のハンセン病施設をつくっています。
1983年、父がネパールのコカナ療養所を訪れたときのことです。父は重い障害のある女性のハンセン病患者の手を握り、言葉をかけ、抱きしめ、そして号泣しました。それは私が生まれてはじめて見た父の涙でもありました。父はかつて恋心を抱いていた村の少女の面影を、彼女に重ね合わせていたのかもしれません。
ハンセン病についての知識を得ること、考えることは、もちろん大切です。しかし、情報として知っているだけ、頭で考えたことだけによる正義感や使命感では、立ちふさがる壁が多く、なかなか目立った成果が上げられないハンセン病のような問題への取り組みは、長続きしなかったでしょう。
日本財団のスタッフや協力者の多くも、最初はハンセン病の知識はあっても現実は知りません。しかし、その体験を通じてそれぞれの心の中に、それぞれの想いが生まれ、育まれていきます。その想いの形は一人ひとり違うかもしれません。しかしそんな想いこそが、私たちのハンセン病をめぐる活動にとって、何よりも大きな力となっているのです。