韓国では日本の植民地から解放された戦後約40年にわたって「浮浪児保護施設」が存在した。身寄りのない子供を保護し「街を浄化」するとの名目で、実際には警察に割り当てられたノルマを達成するため、無理やり親と引き離されて収容された少年も多い。過酷な労役と非人道的な扱いを受け、脱走して海に落ちて死ぬ悲劇が相次いだ。1980年代に廃止された後も、収容者は家族の連絡先すら分からずに年老いた。ハフポスト韓国版に掲載された韓国紙ハンギョレの現地ルポ「仙甘島の悲劇」を紹介する。
島に10代で閉じ込められた人々は、ある者は生き残って初老の年齢となり、ある者は墓石もなく、土の中に眠っている。
9月20日、韓国・京畿道安山市にある仙甘島(ソンガムド)京畿創作センター(旧・仙甘学園)。向かいにある山を見つけた60代の高齢者たちが、雑草を手でむしった。雑草の間に小さな墓が現れる。今年で3年目。リュ・ギュソク「仙甘学園生存者の会」(生存者会)会長ら、仁川に住む仙甘学園の生存者が、マッコリを祭壇に置いて祭事を執り行った
「自分がこの墓に埋められたと思うと、言葉もない」「世話をしてくれる人もなく、名前も知らない。家族も分からない。こうして(少年時代を)過ごしたことがとても悔しい」「家族は、私が死んだのか、生きているのかも知らないだろう…」。深いため息の中に嘆き節があふれた。
仙甘学園生存者会の会員らが、京畿道安山市の旧・仙甘学園の向かいにある山に埋められた仙甘学園生たちの墓を探して、草を刈っている。
仙甘学園は、京畿道が1946年2月1日、仙甘島に設立した浮浪児の保護施設だった。1942年に日本が「朝鮮少年令」を発布し、仙甘島に設立した仙甘学園を、日本の敗戦とともに引き継いだ。日本は「浮浪少年の教化」を掲げたが、実際には「大東亜戦争の戦士として、国に殉ずる人的資源を増やす」のが目的だった。全国で捕らえられた数百人の子供が、重労働と人権蹂躙に耐えかねて島を脱出しようとして死ぬなど、「仙甘島の悲劇」と言われた。ところが、日本の植民地支配が終わっても、この悲劇は、1982年に仙甘学園が完全閉鎖されるまで続いた。
10歳前後の頃に連れて来られ、仙甘学園の閉鎖後にここを離れたキム・チュングン氏(67)は、島を脱出しようとして死んだ子供を、自分の手でここに埋めたこともあったと話す。
「私が埋めただけでも15人いた。みんな15歳前後の子供だった。逃げ出して、干潟に落ちて死んだ4人は、腐敗してここに運ぶこともできず、ムシロに巻いて干潟の近くに埋めた」
島に連れてこられた人々の事情も様々だ。13歳の時、ソウルの南大門で警察に捕らえられたチョン・ビョンフン氏(59)は、「『父を待っているんだ』と説明しても、警察は『何を盗みにきたんだ』と聞く耳を持たなかった。市立児童保護所を経て島に来た」と語った。キム・チュングン氏は、仁川で故郷の甕津(ウンジン)郡に行く船を待つ間、父が少しその場を離れた間に、警察に捕まり、島に送られた。
リュ会長は「園生は少ないときで100人、多いときは200人以上いたが、3分の2は親族がいた。それでも国体(全国国民体育大会)などが開かれたとき、警察は『路上浄化』と言って、路上にいた子供を捕まえて島に送った。割り当てられたノルマを達成するためだった」と説明した。
京畿道は1954年、仙甘島に駐留していたアメリカ軍の支援を受けて建物を新築し、学校や職業教育施設も作ったが、院生の生活は劣悪だった。抑圧的な規律と食糧不足、暴力と強制労働が彼らの日常だった。幸運な子は学校に行けたが、ほとんどは塩田と農地を開墾し、牛を育て、労役に動員された。子供たちの脱走が相次いだ。
京畿道幹部の視察団が仙甘学園を訪問した様子。時期は1960年代と推定される。仙甘学園に収容されていた子供や若者が、丸刈り姿で制服を着て並び、視察団を出迎えた。
チョン・ビョンフン氏は「1部屋に20人以上が寝ていた。服を脱がせて押し込められた。逃げると思ったから。夜に小便に行くと、寝る場所を取られた。だから小便は我慢して寝たけど、おねしょでもすれば全員が殴られた」と回想した。仙甘学園側は、園生の中から力の強い子を選び、「社長」と「部屋長」と称して、園生を管理させ、彼らの暴力を黙認していた。
12歳の時、仁川で捕まったペ・ミョンギ氏(67)は、14歳の時、島から脱出しようとして捕まった。「殴られた。本当に恐かった。軍隊で殴られるなんて、殴られたうちに入らない。なぜ殴るのか? 理由なんてない。話を聞かないと言って殴られ、誰か一人が間違いを冒すとまた殴られ…」
彼は1960年代、仙甘島の問題について書かれた新聞記事にも、親族がいる子供として紹介された。1964年10月26日付の新聞に書かれた「自由への脱出」という記事は、当時の惨状をこう伝えている。「取り締まりの結果、故郷の慶尚北道に親族がいるのに捕らえられ、(島に)送られ、自由のない生活から抜け出そうとする日々が続いた」
仙甘島の船着き場でうどん店を営むぺ氏(55)は、「たまに、60代の年寄りになって、海と船着き場、学園を眺めて泣くこともある。子供の頃に捕えられて、たくさん苦労した。何度も殴られ、死んだ人も多かった」と話した。
餓えと暴力から逃れようと、家族と自由を求めて島を脱出しようとして死んだ子供たちは、ムシロに巻かれて野山に埋葬された。しかし、誰が死んだのか、何人死んだのか分からない。記録がないからだ。何とか生き残り、島から脱走した人々は、社会の底辺を転々としながら60歳前後になったが、生き別れた家族を探し当てられず、貧しい暮らしを続ける。
安山地域史研究所のチョン・ジンガク所長(63)は「解放後、京畿道が仙甘学園の管理主体だった。実際に一部の浮浪少年がいたとはいえ、客観的にはほとんどが親など身寄りのある子供だった。そんな子供を捕まえて収容したのは、人権蹂躙などという程度の話ではなく、強制的な拉致と言わなければならない」と述べた。「遅きに失したとは言え、京畿道が責任を持って調査し、被害者の実態を把握して、合理的な対策を講じなければならない」と述べた。
この記事はハフポスト韓国版に掲載されたものを翻訳しました。
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