東大生5人に暴行されたのは“勘違い女“だったのか。 小説『彼女は頭が悪いから』が私たちに突きつけるもの

コスパ至上主義がもたらしたものとはーー

1行1行から著者の怒りがにじみ出る凄まじい小説

2016年に東大生5人が起こした強制わいせつ事件をモチーフにした小説『彼女は頭が悪いから』(姫野カオルコ/文藝春秋)は、実に473ページにも及ぶ長編作品だ。

一人の女子大学生に大量の酒を飲ませ、マンションの一室に連れ込んで暴行を加えたこの事件は、2003年に集団強姦事件を起こした早稲田大学のサークル「スーパーフリー」を想起させるものでもあったし、また同時期に慶應大学や千葉大医学部の学生が相次いで同様の事件を起こしたこともあって、当時大きな話題となった。

どれも「酒を飲ませて暴行を加える」という点では共通している。しかし、他の事件がセックスを目的としていたのに対し、東大生の起こした一件で性行為そのものは行われていない。彼らがしたこと、それは「女子大学生を集団でいたぶり、おもちゃのように扱って盛り上がる」という行為だった。

なぜ、このようなことが起こってしまったのか。

本書で姫野さんは、苛烈な怒りを腹の底に抱えながら、事件の背景にあったものを丹念に──というより"執拗に"と呼ぶべきレベルで細かく描き出していく。

焦点の当て方も特徴的で、物語の大部分が被害者と加害者の生い立ちや日常の描写に割かれている。4章構成になっているこの長編小説において、事件当日の出来事を扱ったのは最後の第4章のみだ。

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プロローグにはこんな一節がある。

〈夕食にはすこし遅めの20時から、20代前半の7人が集まった。ほんの数時間であった。だが、できごとは、数年かかっておきたといえる。とくにどうということのない日常の数年が、不運な背景となったといえる〉

姫野さんは、最初から宣言しているのだ。このおぞましい事件が起きた背景には、事件に関わる一人ひとりが、社会の中で積み重ねてきた人生があると。

被害者となった女性はどのような家庭で育ち、どんな性格で、どんな毎日を過ごしてきたのか。友達はどんな人で、どんな恋愛を経験し、どのような気持ちであの飲み会に向かったのか。そして、加害者たちは──。

姫野さんは事件後、裁判傍聴にも通いながら時間をかけてこの作品を書き上げたという。報道や裁判で公になっている事実を柱とし、その間を想像力で埋めていくようにして書かれた本作は、1行1行から著者の怒りがにじみ出ている。それはそれはものすごい怒りに感じられる。読書中、その凄まじい迫力にひたすら圧倒され続けた。

成功への最短ルートを一直線に進む"ハイパーdoing人間"

いきなり話が飛んで恐縮だが、人間を表す英語に「human being」という単語がある。beingとは"存在"のことで、今ここにいて、何かを感じながら生きている人間を指して「human being」といっている。ありのままの存在、といったニュアンスが近いだろうか。人間の感性や美意識、言語化されない価値観こそが人を人たらしめているという考えなのだと理解している。

一方、人間を表す単語には実はもうひとつあって、それを「human doing」という。doingとは"行為"のことで、何かを行い、その結果として得たものの総体として人間を捉える言葉が「human doing」となる。

私はこのふたつの区別が大事だと思っている。なぜならこの社会は、圧倒的にdoing重視だ。

お前は何をしてきたのか、何ができるのか、何を持っているのか。現代社会はそんな眼差しで私たち人間の価値を計ってくる。この社会に生きていると、成績や偏差値、属性や肩書き、収入やフォロワー数などといった要素と無縁でいることはとても難しい。

beingに明確な目的はないが(強いて言えば存在し続けることが目的?)、doingには「勝利」「成功」「達成」「攻略」などといった目的がある。doing重視の世界では、そこに至る"最短のルート"を最も合理的な方法で進んでいくことが志向される。

本書に登場する東大生たちは、まさに"ハイパーdoing人間"とも言うべき人たちで、社会が提示する価値観やルールを的確に理解し、勝利や成功のために必要なカリキュラムを効率的かつ精力的にこなしていく。

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加害者となった東大生たちは"全能感"がもたらす快楽に酔いしれ、「偏差値の低い女子大」に通う被害者を徹底的にいたぶった。「自分たちにはその権利がある」と言わんばかりの態度で残忍な行為を繰り広げる様は、本当に醜悪だ。

その結果5人とも逮捕されるに至るわけだが、どういうわけか世間では、「東大生というブランド目当てに近づいた"勘違い女"が将来有望な若者たちの人生を台なしにした」と被害者がバッシングされることになった。

〈勘違い。勘違いとはなにか?〉

姫野さんは冒頭で怒りを押し殺すようにこう書いている。自分もそう思う。なぜ被害者が叩かれなきゃいけないのか、その理不尽さにわなわな震える。しかし同時に、doingの世界に生きる私たちは、彼らの"すごさ"をリアリティを持って想像できてしまう。

自分たちが受けたテストで、遥か上にいたすごい人たち。自分たちが諦めてしまったところを、軽々と乗り越えていったすごい人たち。才能や資質に恵まれながらも努力を惜しまず、激しい競争を勝ち抜いていったすごい人たち。......そんな風に、彼らが積み上げてきたdoingのすごさが想像できてしまう。

だからこそ、事件を知った人々から「台なし」という言葉が出てくるのではないか。この事件だけでなく、有名人やエリート官僚が性暴力やセクハラ問題で失脚したときにもしばしば同様のバッシングが起こるが、根底にはこういったdoing重視の価値観があるような気がしてならない。

美咲は東大生の将来をダメにした「勘違い女」なのか

と、この事件はどうしても「東大生」という部分に注目してしまいがちだが、本作の主人公は被害者となった女子大学生の神立美咲だ。物語は事件の8年前、まだ美咲が中学1年生だった時点からスタートする。

ファッション雑誌の記事に胸をときめかせたり、学校の友達とキャッキャ笑い合ったり、家族のご飯を作ったり、他校の男子生徒とデートしたり、ランチのときにダイエットを気にしたり......そういう他愛もない人生のひとコマひとコマが淡々と描かれていく。

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もちろんフィクションなので、実際の被害者とどのくらいシンクロしているかはわからない。しかし、物語の美咲は「どこにでもいるごく普通の女の子」だった。美咲のbeingを丁寧に描き、彼女を徹底的に"人間として扱う"ことが姫野さんの怒りの表明だったのではないかと私には感じられた。

美咲は、繰り返し「ふつう」という言葉で形容される。確かに平凡な女子大学生かもしれない。難関と呼ばれる学校に通っているわけではないし、グループにいても目立つポジションでもない。全体的に受け身で、人目を引くような大きな胸をしているが、自己評価は低く、恋愛経験に乏しい。

そんな、どこにでもいそうな「ふつう」の女の子が、いつか白馬の王子様が現れることを夢想して何が悪いのか。夢に見たようなシチュエーションが現実に訪れ、恋に落ちた相手と流れに身を任せてホテルへ行ったとして、何が悪いのか。

出会った相手がたまたま東大生で、その頭の良さに尊敬の眼差しを向けたとして、何がおかしいのか。好きな人に嫌われることを恐れ、相手の無茶な要求に応えようとしたことの、何がおかしいのか。それがなぜ東大生ブランド目当てという「下心」になってしまうのか。

大量の酒を飲まされ、「ネタ枠」としておもちゃのように扱われた美咲が、なぜ東大生の将来をダメにした「勘違い女」になってしまうのか。勘違い。勘違いとは何か?

加害者や加害者の親、被害者バッシングをした世間に対して、姫野さんは激しく突きつける。

しかし、悲しいかな、加害者や加害者の親たちに、この怒りは響かないだろうという絶望も同時に描いている。

なぜなら「内省」や「感情の言語化」といった行為は、彼らにとって無駄なことだからだ。明確な答えが出ないこと、考えたところで実用性のないことは、コスパが悪い。そういうことを考えないからこそ、彼らは東大に入れたのだと、姫野さんも繰り返し述べている。最短距離で「正解」にたどり着くことでdoing社会を勝ち抜いてきた彼らにとって、美咲のbeingに思いをはせる時間は無意味に等しい。彼らはなぜ美咲が「泣いた」のか、永遠にわかることはないのだろう。

では、同じdoingの世界に生きる私たちは、これをどう受け止めるか──。

自著について語るインタビューで、姫野さんは本作を"ミラー小説"と呼んでいた。読む者の価値観をあぶり出してしまう恐ろしい鏡......。そこに映る自分の姿を、私たちはどのように見つめるか。

可視化や定量化のできるdoingばかりに囚われ、他者のbeingを、そして自分のbeingすらも疎かにしがちな私たちは、そんな自分の姿をはたして直視することができるのか。

『彼女は頭が悪いから』は、私たちにそんな問いを突きつけてくる凄まじい一冊だ。

【執筆:清田隆之(桃山商事)/編集:南 麻理江、笹川かおり】

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