母国へは帰ったけれど~アフガン帰還民支援

「帰還が最善の道」「難民は元いた国に戻るべき」という考え方そのものが、ときに難民の困難を終わりのないものにすることがあります。

難民にとって最も良い結末は母国に帰ること―、そう思われるかもしれません。思い出の詰まった住み慣れた家、親しい隣人や親戚、友人、家族を支える仕事、将来の夢を見ながら通った学校、そこに戻れたらどんなにいいでしょうか。さらに、シリア危機を契機に高まった、難民の流入に伴う治安悪化への懸念も、難民の本国帰還を後押ししています。

しかし、「帰還が最善の道」「難民は元いた国に戻るべき」という考え方そのものが、ときに難民の困難を終わりのないものにすることがあります。その恐れがいま顕著に表れているのが、アフガン難民です。

アフガン難民を最も多く受け入れ続けてきたパキスタンでは、昨年6月、帰還政策が強化され、これまでに60万人以上がアフガニスタンに帰還しました。

しかし「帰還」とはいえ、国連の調べでは半数近くが、故郷に家や土地、生計の手段がなかったり、場所によってはいまだに戦闘が続いているなどして、元いた場所には戻れていません。

帰還は多くの人たちにとって、再び未来の見えない、新たな困難の始まりになっています。

帰還で財産のほとんどを使い果たし...

10年前、故郷で戦闘がやまないことから、両親とともにパキスタンのペシャワールに逃れてきたサディクさん(23歳)。パキスタンで同じアフガン人女性と出会って結婚し、いま4歳と生後6ヵ月の2人の息子、2歳になる娘がいます。

サディクさんは先天性内反足といって、左足の発達が不十分なために歩くのが不自由ですが、パキスタンでは仕立ての仕事に就くことができ、家族を養うだけの収入を得ていました。パキスタン政府のアフガン難民帰還政策が始まってから、しばらくは傍観していたサディクさん一家ですが、周囲のアフガン人が次々と帰国していったことから、昨年12月、帰る覚悟を決めました。

アフガニスタンにいる親せきや友人に何度も連絡を取り、住める場所を確保しました。そして1日約3万5,000ルピー(3万5,000円)で1台の中型トラックをレンタルし、一家の家財道具を全て詰め込んで、アフガニスタンのナンガハル州・ダラエノール地区に帰還しました。この引っ越しで、貯金の多くを使ってしまったと言います。

サディクさん一家は、これまで難民登録をせずにパキスタンで暮らしていました。帰還する人たちは国連から「帰還証明書」が発行され、一時金が支給されますが、難民登録していない人たちはこの証明書をもらえません。そのため、アフガニスタンに辿り着いて3ヵ月経っても、どこからも支援を受け取っていませんでした。

「いま私たちが住んでいるところは近くに学校がなく、子どもたちが学齢期になったらどこに通わせたらいいのか分かりません。クリニックなどの医療機関もありません。私の父は体が弱く、病気になったらどこを頼ればいいのかと、とても心配です。

何よりも、住む場所が一番の問題です。帰還してすぐは、友人の家に1週間ほど住まわせてもらい、その間に新しい住居を探しました。いまは一軒家に別の家族と住んでいます。一軒家と言っても、私たちが使えるのは2部屋しかなく、家族7人ではとても窮屈です。電気もありません。

仕事が見つからないため、発電用のジェネレーターを買うこともできません。今はまだ貯金を少しずつ切り崩し、なんとかやりくりをしていますが、一家の主として、少しでも早く仕事を見つけ、生活を整えたいと思っています」

女性の就労が制限された国で、どうやって子どもたちを食べさせていけばいいのか

女性が外出したり仕事を持ったりすることを厳しく制限されたアフガニスタンでは、寡婦世帯が生計を立てるのは著しく困難です。アニサ・グルさん(33歳)はそのひとりです。

8歳のときに両親とともにパキスタンに逃れ、その後結婚して6人の子どもに恵まれました。しかし3年前、夫がテロの犠牲となり、アニサさんはひとり、子どもたちを養わなくてはならなくなりました。途方にくれながらも知人たちに何か仕事をもらえないか訪ね歩き、何軒かから洗濯の仕事をもらうことができました。

細々とではありますが、何とか子どもたちを食べさせていけるようになったと安堵していた矢先、アフガニスタンへの強制送還が始まったのです。取り締まりは厳しく、やむなく帰国を選んだものの、彼女は再び子どもたちを食べさせられないという現実に直面しています。アニサさん一家も非登録難民で、国連からもアフガン政府からも支援を得られずにいました。

AAR Japan[難民を助ける会]からの支援が初めて受け取った支援で、当面の生活は何とかなったものの、これからのことは全く見通しが立ちません、仕事が見つかるかという心配に加え、今いる地域は治安が非常に悪く、外出中に自分の身に何かがあったら、いったい誰が子どもたちを守ってくれるのかという不安にさいなまれています。

数十年にわたり紛争が続き、今も各地で戦闘のやまないアフガニスタンで、最終的には100万人に達すると言われる人たちが帰還し、新しい生活を作り上げていけるようにするには、一国の努力だけでは到底追いつきません。

世界に大々的に報じられるような帰還であれば、国際支援も多く集まりますが、注目をあびるのは難民問題全体のごくごく一部にすぎず、そのしわ寄せを受けるのは難民一人ひとりであり、特にアニサさんのような寡婦世帯など、脆弱性が高い人たちです。

AARは、パキスタンからの帰還を余儀なくされながらも、どこからも支援のなかった580世帯に、今年2月から食糧や生活物資の提供を行ってきました。

前述のサディクさんは、厳しい状況の中でも、AARの支援に対してこう感謝の気持ちを語ってくれました。

「私たちは幸運なことに、AARからソーラーパネルや食糧、日用品などを受け取ることができました。アフガニスタンに戻ってから、電気もお金もない生活を送っていた私たち家族にとって、支援は大変ありがたかったです。

アフガニスタンに戻った人たちの中には、私のように障がいがあったり、仕事がなくて家族を養うのに苦労したりしている人たちが数多くいます。

そうした困難な状況にいる人たちに、遠い国から支援の手を差し伸べてくれることに、心から感謝の気持ちを伝えたいです」。

AARは引き続き、アフガン帰還民をはじめ、難民の方々への支援活動を継続してまいります。皆さまの引き続きのご支援を、どうぞよろしくお願いいたします。

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