小さな彼氏を見るように息子を見る妻。「じゃあオレは?」といじける僕。きっと愛は努力なんだ!

夫婦間の心のすき間を、子どもで埋めていたのかもしれない...
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母親と息子のイメージ写真

「あなたはママの宝物」というのが口癖の妻

「子は鎹(かすがい)」という言葉があります。大辞林によると、

① 【2本の材木をつなぎとめるための両端の曲がった大釘】、

② 【2つのものをつなぎとめる役をするもの。「子は――」】。

つまり、子どもは夫婦の仲をつなぎとめるものだと。しかし、子はかすがいっていうけれど……夫婦間の心のすき間を子どもで埋めていませんか? と思うことがしばしばあります。

夫婦仲は悪くはないけれど、恋愛していたときのようなときめきはもう感じない。会話はもちろんあるけれど、その内容の大半は子どものこと。

たしかに、子育て中、しかも子どもがまだ小さなうちは、夫婦の時間などなかなかつくれないのもわかります。実際、僕ら夫婦も4歳になる男の子を子育て中。どうしたって、生活のすべてが子ども中心になってしまいます。

でも、ふと思うんです。妻は子どもと触れ合うとき、とても満たされたような、見たことはないけどまるでマリア様のような柔らかな表情になります。それを見るにつけ「ああ、恋愛してたときは、あんな表情をオレに向けてくれてたよな」と思ってしまうのです。

「あなたはママの宝物」、妻は口癖のように子どもに発するのですが、それを聞くたび「じゃあオレは?」と心のなかでいじけてしまうのです。「子どもは別だろ」とわかっちゃいるのですが、いじけてしまう自分がいるんです(笑)。

妻が子どもに向ける、あの柔らかい表情を取り戻したい! 47歳、結婚して15年になりますが僕は妻を愛しています。同い年の妻を、世界で一番きれいだとすら思っています。なのに心の距離が遠く離れてしまったような気がする。手を握ることすら最近はない。なんで、こうなってしまったんだああ!!

僕らは互いに32歳のとき結婚しました。交際半年のスピード婚、プロポーズは妻からの「あなたの子どもが産みたいの」という言葉でしたから、もうラブラブでした。しかし僕らには9年間、子どもができなかった。そして、3年間の不妊治療の末、42歳でパパママになった。苦労して授かった子どもですから、互いに前のめりになっていたというか、上手いガス抜きができなかったのでしょう。妻は生後3か月のころ、産後ウツに。そして今度は僕が3歳のころ育児ウツに。ウツになるほど真剣に子どもと向き合っていたため、生活も子どもが中心になっていったのも当然です。しかも互いの両親が近くにいないという物理的な理由で、夫婦で夜にちょっとデートに行く、ということも叶いませんでした。そのため、どんどんと夫婦の時間など皆無になっていったのでした。

妻の“トキメキ”は息子ばかりに向いている

妻から「あなたの子どもが産みたい」とプロポーズされるほど、ラブラブだったのに、今やそのトキメキを向けるのは、子どもにばかり。子どもが産まれたら、その「あなた」は要らんのかい! ワシャ、スペースシャトルに宇宙で捨てられる、空になったエンジンか! とグチを言っても始まりません、その原因を考えてみると……僕にあるのかもしれません。

というのも子どもが1歳を過ぎたころから、僕は子どもとずーっとべったり。お昼寝明けの午後2時を狙って保育園に迎えに行き、そこからは「公園だ!」「イオンだ!」「ゲーセンだ!」と子どもを連れまわし、その後は決まって銭湯へ。興が乗ればそのままふたりで外食し、遅いときは夜の8時~9時まで子どもとふたりっきりで遊ぶこともあります。くわえて週末は、この一連の流れを朝からやり倒す。

妻は仕事をしていて、しかも時間が足りないほど忙しくしている。そのため僕が子どもを連れ出せば、それだけ妻に自由な時間を与えることができる。……という側面があるのも事実ですが、裏を返せば、それだけ僕が子どもとべったりなら、そりゃ夫婦の時間もなくなるだろうに、という話でもあります。

ですから僕は僕で、知らない間に子どものことばかりを見ていて、妻のことが視界に入ってなかったのです。言ってみれば、自分からは与えてもないくせに「愛が欲しい」とねだっていたんですね、僕。

そうこうしているうちに、妻は小さな彼氏を見るように子どもと接し、僕は子どもといろんなところに出かけて遊ぶ。つまり夫婦が互いに果たせないことを、子どもを通して埋めている。妻と子ども間、僕と子ども間、それぞれのラインはあるのに、僕と妻のラインがない。ですから、あまりいい意味ではない形での「かすがい」になってしまっていたのです。

「男と女」であるために互いの努力が必要

「夫婦」という言葉を聞くと、パッと思い出すのが僕の両親。まだ親父が生きていた30歳ころ、予告なしに実家に帰ったときのことでした。居間のほうに近づくと、ともに還暦をすぎていたにもかかわらず、ふたりは何やらキャッキャじゃれあっています。見ると、並べた座布団を土俵に見立て、相撲を取っていたのでした。しかも親父はわざと負けて転がりながら「決まり手は押し出し、とし子山の勝ち~」とやっていたのです。思わず後ろから「やめろ!」と叫んでしまいました(笑)。

僕にとっては「両親」である彼と彼女は、僕の知らないところで「男と女」であるため、互いに努力していたのでしょう。そうじゃなきゃ還暦すぎて相撲取らないだろうし、しかもわざと負けてあげるなんて!

思い返せば、まだ子どもが妻のお腹にいたときのこと。身重の妻は、外に出歩くことすらままならない。そのため、マンション下のゴミ置き場にゴミを出しに行くことを「ゴミ出しデート」とふたりで手をつないで、行っていたっけ。時計の針は戻せないけど、互いの心は戻せるはず。そのためには……愛って、やっぱ努力だよなあ、としみじみ思うのでした。

■村橋ゴローの育児連載

親も、子どもも、ひとりの人間。

100人いたら100通りの子育てがあり、正解はありません。

初めての子育てで不安。子どもの教育はどうしよう。

つい眉間にしわを寄せながら、慌ただしく世話してしまう。

そんな声もよく聞こえてきます。

親が安心して子育てできて、子どもの時間を大切にする地域や社会にーー。

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