「タイキック」がなくたって、世の中には楽しい笑いがたくさんある。

「不倫した女性にはリンチをしてOK」という構図は、受け入れることができない。
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Jiji

■気絶しそうになった、問題のシーン

年明け、ネットなどで話題を集めたのが昨年大晦日に放送された「ガキの使いやあらへんで」(日本テレビ)。うっかり映像を見てしまい、あまりのひどさに気絶しそうになった。「ベッキー禊(みそぎ)のタイキック」のシーンのことだ。あっというまに話題から消えているが、見逃してはならない問題がここにはある。

「タイキック」については、多数上がった批判の声に対し、「お笑いがわからない奴ら」「ポリコレ(ポリティカルコレクトネス)を振り回すな」といった番組擁護の声も少なくない。コラムニストの小田嶋隆さんは、擁護論を成立させる構造そのものを視野に入れて批判している。

この文章を踏まえつつ、私なりに整理すると以下のようになる。

■出発点。これは暴行である。

最初に前提として、これが「暴行」であることは確認しておきたい。漫才で、芸としてハリセンで相方をはたくのとはわけが違う。テレビの制作現場ではなく、例えばパーティー会場の余興で同じことが行われたとしたら、ただちに暴行罪になるだろう。暴行罪は親告罪ではないので、被害者がこの仕打ちを受け入れたかどうかという問題ではない。

「お笑いだから」という人に対しては、「あなたはこの映像を自分の子どもに笑いながら見せますか」と尋ねたい。ベッキーの顔は明らかに恐怖でひきつっていた。この場面を見ながら笑い転げる大人たちを見た子どもは、「いやがる人を押さえつけ後ろから蹴ってもOK、お笑いなんだから」と思い、明日、「お笑いとして」誰かに同じことをするかもしれない。それこそまさに、いじめである。

■これは、リンチである。

「不倫した女性にはリンチ(リンチである、これは)をしてOK」という構図は、受け入れることができない。「女性ばかりをとがめて男性の側は不問」というダブルスタンダードの問題が、もちろんある。では、「男女等しくリンチを受けるならOK」かというと、それも違う。配偶者に裏切られた妻や夫には、その夫や妻を非難する資格があるだろう。だが、基本的には当事者間の問題であり、関係ない他人によるリンチが正当化されるわけではない。ひそやかに(かどうかわからないが)「禁じられた」愛情をはぐくむのはNGだが、公衆の面前でリンチするはOKだというのは、別の意味でダブルスタンダードである。

「ほかの出演者もタイキックを受けたのだから」というのは、悪質な言い訳である。小田嶋隆さんが指摘するように、「いじめに加担する人間は、時に役割を逆転させることで、自分たちの組織の構造を維持しようとする」のだ。しかもベッキーについては、あらかじめ「禊が必要な女」という烙印を押し、タイキックという「禊を受けさせてやる」という仕立てになっており、タイキックを受けたほかの人たちと「同じ」では決してない。

■「自由」だから何をしてもいいわけではない。

「お笑いの手を縛るな」という擁護論がある。「自由にやることでお笑いという芸が磨かれる」のだという。確かに自由は重要だが、自由は「野放図」とは違う。たとえば、誰かを誹謗中傷して名誉を棄損する「自由」はないのである。

ほかの問題では「人権派」と目されるような人も、こういった問題になると「文化」を持ち出して、「文化を極めようとするならギリギリの線を狙うもの」「自由と人権侵害との比較考量の問題だ」などと言ったりする。だが、「文化」を言い訳にして強姦することがありえないのと同様に、「文化」だからといって目の前にいる人を暴行してはいけないのである。

言論の自由があるからといってヘイトスピーチをまき散らしてはいけないのと同じである。ヘイトデモや集会の映像を見ると、参加者たちはいかにも楽しそうだ。彼らは自分たちが嫌う外国人や、主張が違う人たちのことを「笑いもの」にしている。あえて言うと、今回のシーンを「文化」「自由」を理由に容認するなら、論理的にはネトウヨの口汚い罵り言葉も容認することにつながりかねないのである。

それに、「自由」「文化」だと言うなら、お笑いの担い手たちはなぜ誰かの尊厳を踏みつける方向に頑張るのか。標的になるのはたいてい、ベッキーのように何らかの意味で「下」の立場に位置づけられる存在、踏みつけても「安全」な存在だ。翻って、日本には政治家など権力者を笑いのネタにする芸が非常に少ない。権力に笑いの刃を向けない方向へ、自分で自分の手を縛っているのではないか。海外にはそういった「お笑い芸」が山ほどあって、ネットでいくらでも見ることができる。「ギリギリの線」と言うなら、政治家など権力者を「ギリギリの線」で茶化す「大人の芸」こそ、ぜひ見せてほしい。

■「告発の行方」との相似性

このシーンを見て思い出したのは、1988年の米国映画「告発の行方」である。ジョディ・フォスター演じる女性が、ビリヤード台の上でレイプされる。彼女の訴えを受けた女性の地方検事補は、周囲で笑いながらはやし立てていた男たちを暴行教唆で告発する。その周囲にいた男たちの姿が、蹴りを入れられるベッキーを見て笑い転げる人たちや、そのシーンに「笑ったww」などとコメントを入れる人たちと、私の中で重なった。

「告発の行方」では、レイプされた女性は酒に酔い、ドラッグを摂取し、露出の多い服を着ていたので、彼女の側にも落ち度があったとされた。ベッキーが「不倫」という「落ち度」を抱え、暴行を受けても仕方がない存在と番組の中で見なされたのとよく似ている。だが、被害者の「落ち度」(それが本当に「落ち度」かどうかはともかく)は、強姦や暴行やその教唆を免責しないのである。

■AV出演被害問題との相似性

さらに、番組を擁護する主張に目を通していて、AV出演被害問題で被害者や支援者に向けられた批判の言葉と似ていることに気が付いた。「お笑いを見ない者が言うな」「お笑いをつぶすな」「作っている側は一生懸命だ」「本人は出演料を受け取っているではないか」......。「お笑い」を「AV」に置き換えれば、そのままどこかで目にしたようなセリフだ。

違う点ももちろんたくさんある。個人に加えられた被害そのものの深刻さ、だましたり脅したりして若い女性をAV出演に追い込んだのか、それとも番組演出上の「ドッキリ」だったのかという経緯の違い、等々。だが、若い女性が衆人環視のもとで何らかの害を加えられ、それがメディアに乗って流通し消費されるという構図は共通している。それらの行為が問題になり、批判された時にわき起こった擁護論の口ぶりも。

それらの口ぶりには、批判論に対する冷笑が漂うという点でも共通している。ここでも、「笑い」が登場する。だが、怯える女性に蹴りを入れるシーンに笑い転げたり、それを批判する人を冷笑したり、そんな「笑い」がはびこる社会は、単純に言って、気持ち悪い。それをよしとする「文化」に、私はくみしない。私は笑いが大好きだし、「笑い声がいいね。本当に楽しそう」とほめられることすらある。「禊のタイキック」がなくたって、世の中には楽しく笑えることが、たくさんあるのだ。

(2018年1月17日「自治労」より転載)