新国立競技場――1000億円安くなったから、それでいいのか

オリンピックが、国家事業が、そして政治が、ただ密室の議論の結果で決まっていく。これが21世紀だろうか?

1000億円安くなったから、それでいいのか――。

昨年から新国立競技場の問題を追いかけていた私が、新国立競技場の仕切り直し後の基本方針が決まった時に思った、率直な心情だ。

政府は7月に、2520億円がかかる従来案を白紙撤回した後、見直し後のプランの検討に入った。しかし、可動式屋根や座席数、冷房といった要件の調整は密室で行われ、"政府筋"の情報が新聞に踊り、フタを開けてみれば「1550億円のシンプルな競技場」という結論だけが提示された。

結局、見直し前も、見直し後も、議論の過程が明らかにされていないのは、変わらなかった。

今の政府が作った公募案は「国立競技場のあるべき論」をすっ飛ばし、「アスリートファースト」とだけ言って、批判を受けないよう、ただ安くするためにスペックを落としているようにしか見えない。今後、さらに資材高騰で値段が上がることになれば、「時間がない」という理由で、どれだけ批判を受けても、いくらでも予算を積み増して「シンプルな」競技場が建つのだろう。

白紙見直しそのものについて、ゼロベースで見直してみよう。

私たちは1500億、2500億という、トータルコストの約束が欲しいのだろうか?

そうではない。

私たちはどんな競技場がいくらか計算もできなければ、それで高いか安いか評価もできない「素人」だ。

しかし、スタジアムを利用するのも素人であれば、建設費の原資となる税金を支払うのも、多くの素人。専門家の仕事を最終的に評価するのは「素人」。「素人」を納得させられなければ立ち行かないのが、オリンピックであり大規模国家事業であり、国政だ。

だから、「素人」である国民を納得させるために、もっと政府は議論をガラス張りでやらなければならない。

そうして初めて「素人」である多くの国民が、プロセスを見つめ、様々な専門家の見解に耳を傾け、その最終的な意思決定が誰によってどういう形でなされたかを見守り、そして選挙という形で、意思決定者の評価を下すことができる。

1500億だからよし、2500億だからダメ、ではない。

1500億円ならどういうものが建ち、何を我慢しなければいけないのか。逆に2500億円出せば、何を得られるのか。それは投資に見合うのか。2000億円ではどうなる? 1000億円では? 建った後、50年を見据えたときにどういう違いが出る?――そうした議論の過程を知った上で、政府が決めた方針に賛成したり、反対できる環境が欲しいのだ。

私たちは50年以上という、長い、気が遠くなるほど長い時間を、完成したスタジアムの存在とともに過ごさなくてはいけない。その要件が詰められる過程を知る権利がある。

オリンピックが、国家事業が、そして政治が、ただ密室の議論の結果で決まっていく。これが21世紀だろうか?

「議論のプロセスを明らかにしてくれ」と言い続けること。そして、専門的だが重要な議論を解きほぐし、専門家と「素人」の間に横たわる深い淵――ここに橋をかけること。それが、私たちメディアの使命のひとつ。そう、強く思う。

新国立競技場、ザハ・ハディド案

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