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2019年08月16日 08時35分 JST | 更新 2019年08月16日 08時35分 JST

「表現の不自由展・その後」の炎上は、"世界水準の芸術"だった? ヒントとなる文脈を探して。

今回の「表現の不自由展」をめぐるSNSでの炎上を見て、最初に思い浮かんだのは「社会関与型の芸術 Socially Engaged Art」の存在だ。

あいちトリエンナーレでの展示「表現の不自由展・その後」が、議論を巻き起こしている。「議論」というと聞こえがいいが、暴力的な脅迫、テロ予告、政治家たちからの実質的な圧力を巻き起こし、連日SNSが「炎上」して大変なことになっている。批評家の東浩紀も企画アドバイザーの辞任を申し入れた。

これ自体が「表現の不自由」の状況にある日本を可視化した、と肯定的に評価しようと思えばできなくもないのだが、そう評価するのにもいささかの躊躇いがある。

この原稿では、「表現の自由」を絶対化するのでもなく、かと言って熱くなってガソリンを撒くと予告したり、公金を使うべきではないと叫んだり、美術ではないと断定したり、プロパガンダだと叫んだりするのでもなく、もう少しニュートラルな視線を導入してみたい。この展示が、世界の芸術においてどういう文脈にあるのかについてである。

私も実際現地に足を運んでみたが、「社会性の強いアートを集めた芸術祭としては、日本トップクラスである」と感じた。そして、ネットやメディアでの騒ぎと、現場・個々の作品の印象は大きく異なっていた。

“騒ぎ”を起こすのも、芸術?

今回の「表現の不自由展」をめぐるSNSでの炎上を見て、最初に思い浮かんだのは「社会関与型の芸術 Socially Engaged Art」の存在だ。

現在の美術においては、世界的にこのタイプの芸術が堂々と認められている、ということは共有しておきたい。

パブロ・エルゲラ『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』によると、起源は1960年代。共同でイベントを開いてコミュニティを活性化したり、銃社会に抗議するために住人から銃を集めて溶かしてモニュメントにしたりと、ダイレクトに社会に介入して何かを動かそうとするものである。このようなアートのうち、「善」を志向するタイプの芸術は、芸術祭や、町おこしや、被災地復興や、「地域アート」などで、皆さんも良く目にしていると思う。

 一方、エルゲラは、「不和 descensus」や「敵対antagonism」を表現するアートも重要であることを強調している。それはしばしば非難され、弾圧される。

「非倫理的なアーティスティックな行為は、許容範囲を超えたり、非合法でさえあるかもしれないが、それは社会の既成秩序に挑戦するときに芸術が果たす役割の一部であり、表現の自由はつねに擁護されなければならない」(p19)。

 今回の「表現の不自由展・その後」で論点・争点になるのは、ここなのではないかと思う。このようなものを、日本の芸術は、そして、言説空間は、受け入れることができるのか、そうするべきなのかどうかが、潜在的な論点であろう。

時事通信社
「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」を中止することが決まり、取材に応じる芸術監督の津田大介氏

コンテナの中の「難民」をネット中継

では「不和」と「敵対」とは何か。

このタイプの美術に大きな影響を与えた美術評論家のクレア・ビショップは、社会と関係する芸術のうち、「不和」や「敵対」を恐れない作品を評価し、擁護する立場を示した。

例として、クリストフ・シュリンゲンズィーフの《オーストリアを愛してくれ》(2000)が分かりやすい。

観光地として有名なウィーン国立歌劇場の横にコンテナを置き、中に本物の亡命希望者に暮らしてもらった。コンテナの上には「外国人は出ていけ」と書かれた横断幕を掲げ、インターネットで生活が中継される。ネット投票で不人気の難民が、次々に本物の拘留所に送り込まれる。

この作品は当然、憤激と議論を巻き起こした。非難は多かったが、移民や難民を排除しようとする排他的なヨーロッパの政治情勢を可視化し、実際の拘留所では巻き起こすことのできない議論を始められたことは事実であると、ビショップは評価している。

Imagno via Getty Images
クリストフ・シュリンゲンズィーフの《オーストリアを愛してくれ》

対話すれば、わかりあえるの?それとも…

「敵対antagonism」とは、むしろ「拮抗関係」と訳すべきかもしれない。これはもともと政治学者ムフとラクラウの提示した概念である。それは民主主義の限界であり、不可避な対立や不合意、異議申し立てをむしろ民主主義の基礎と見做す。

理性的に対話すればわかるはずだという「熟議民主主義」に対し、「人と人は分かりあわないし、対立する」ということを前提としそれを重視しようというのが、「ラディカル・デモクラシー」と呼ばれる立場であり、すごく単純化すると、「敵対」を推す立場の人たちが望む民主主義のあり方だ。

ムフ、ラクラウが注目する「敵対性」は、理屈や利害の対立ではなく、アイデンティティへの脅威を軸にして生じる。だから、理性的な議論では解決が困難である。今のSNSを見ていると、現状はそうだな、と説得力を感じないだろうか。

あいちトリエンナーレが目指したであろう“世界水準の芸術祭”

「社会関与型の芸術」というジャンルの表現が、一定の地位を得ているというアートの現状を押さえたら、次に、政治的なタイプの芸術や、議論を起こす芸術作品について確認してみたい。 

世界三大芸術祭というものがある。ヴェネチア・ビエンナーレ、ドクメンタ、ミュンスター彫刻プロジェクトである。今回のあいちトリエンナーレは、ドクメンタやミュンスター彫刻プロジェクト型の芸術祭を日本に導入しようとした試みのように見える。

ドクメンタは、ドイツのカッセルで開催される芸術祭だ。ナチス・ドイツに「退廃芸術」として焼かれたものを復興させようとするところから始まっているので、ぎょっとするほど政治的である。

たとえば2017年は、ディレクターが(アウシュビッツのある)ポーランド人のAdam Szymczyk。虐殺の加害国が税金を出し、被害に遭った国の人間にディレクションさせているのである。テーマは、虐殺の原因となる差別であった。

ナチスドイツを扱う作品ももちろんある。ヨーロッパに押し寄せている移民・難民の生活を思わせるシェルターやテントなどを模した作品がたくさん展示されている。美術館の地下では黒人が労働をしている映像が流され、奴隷たちの労働の上に白人の美術や文化があることも突き付ける。差別、暴力、収奪、戦争などが次々と俎上に上がっていく。日本の美術に慣れていると面食らうほどに政治的なのだ。

時事通信社
2017年の「ドクメンタ」、テーマは「アテネから学ぶ」。写真は「本のパルテノン神殿」と名付けられた巨大なアート作品。実物のパルテノン神殿と同じ大きさの骨組みに、約10万冊の本が取り付けられている。

ミュンスター彫刻プロジェクトは、ある彫刻作品の寄贈を巡って、公共性と芸術の関係について議論が起こったのがきっかけとなって始まった。目指されているのは「対話」である。作品を作る人、観る人たちがそれぞれ、地域と作品と対話し、その後、公共的な議論の場を作っていく。

これらが世界の芸術祭の潮流なのである。あいちトリエンナーレ2019は、その意味では、世界水準の芸術祭を目指している、と言えると思う。公共の議論を巻き起こす材料を提供することも、現在の芸術の役割のひとつなのだ

「炎上」はネット時代の社会関与型芸術か?

 以上確認したように、「表現の不自由展・その後」は、芸術か芸術でないかで言えば「芸術である」と言うしかないだろうと思う。この場合の「芸術である」とは、価値を高く評価する、という意味ではない。筆者の印象としては、今のところはイデオロギーが強すぎるし、造形的にもどうかなぁ、という気もする。しかし、これまでに確認してきた芸術の動向を視野に入れれば、芸術ではないとは言えないのである。

ひょっとすると、「不和」や「敵対」を顕在化させ、議論を巻き起こすことで「公共圏」「デモクラシー」を活性化させ、社会を変えることを狙った? と読めば、そのことの力をこそ評価しなければならないのかもしれない。

もしそう評価するとしたら、どうなるだろう。

 「表現の自由」を巡る問題を可視化し、権力による圧力(これはニュースにもならないが、日常的に美術館では検閲に近いことは起きている)が存在していることが誰の目にも明らかになった。生命を危険に晒さなければ言えないことがある状況であることも、ハッキリとしたと思う。

ネットでは普段、女性をデフォルメした”萌えキャラ”などをめぐり、「表現の自由を侵害するのはフェミニストやリベラルだ」という論調が強いが、そう主張してきた人々に、それは一面的な認識にすぎないと反省を促す効果もあっただろう。まさに感情的な「敵対」である炎上も巻き起こした

信じたい”ウソ”は時に事実に勝ることを指摘した『「ポスト真実」の時代』の共著者である津田大介ならではの、見事なネット時代の社会関与型芸術であると見ることだって不可能ではない。まさにテーマである「情の時代」(情報、感情)の通りではないか(ガイドマップには、「メディアと芸術」「高度情報化社会の当事者性」という言葉もある)。本人が認めようと認めまいと、そう「見る」ことはできるように思う。

「あいちトリエンナーレ2019」のパンフレット

しかし、だ。理屈の上ではそうではあっても、どこか評価できない自分がいる。他者の信仰や尊厳を不用意に踏みにじる行為を、良いとも感じない、というのが理由の一つではある。しかしそれ以上に、もはや「敵対」だけではダメで、その先が必要であり、そこに踏み込んでほしかった、と感じていることが大きい。

一般論として、日本の「空気」は意見を言いにくくさせていると思う。言うべきことをはっきり言うようになったほうが生きやすくなるし、生産性も創造性も上がるだろうと思う。しかし、だからといって「敵対」「炎上」を煽り続けるだけでは、対立と分断がより深まるだけではないか。

「不和」や「敵対」を前提としながらも、「理解」や「対話」に向かう、そういう不可能かもしれない未来を、アーティストたちには創造して欲しい。おそらくあいちトリエンナーレで展示されている個々の作品はそれを志向しているはずだ。アーティストたちが自主的に対話する機会を作ったのもその現れであろうし、個別の作品は、複雑で矛盾した人間や現実それ自体を繊細に見つめていた。いかにして公共性や共同体を再構築するかというテーマもある。

同時代において同じように苦しみながら何かを手探りする者として、ぼくはそこに期待する。

 

(文:藤田直哉 @naoya_fujita /編集:南 麻理江 @scmariesc )