「負傷兵の血や膿、汚物…失神しそうな悪臭だ」 沖縄・南風原で再現された陸軍病院壕の「臭い」

喉の奥で、湿った土にまみれた黒い血の臭いを感じた。
戦後、壕の入り口付近の地中で発見された200点あまりの医薬品の一部。当時の状況などから、必要に応じて戻ってまた使おうと、撤退時に一時的に隠したものと考えられている。72年前から一度も開封されていない、リンゲル、ヨードチンキ、軟こうの瓶=2017年9月28日、沖縄県南風原町
戦後、壕の入り口付近の地中で発見された200点あまりの医薬品の一部。当時の状況などから、必要に応じて戻ってまた使おうと、撤退時に一時的に隠したものと考えられている。72年前から一度も開封されていない、リンゲル、ヨードチンキ、軟こうの瓶=2017年9月28日、沖縄県南風原町
JINHEE LEE

沖縄県ではこれまで、戦争の悲惨さを伝え、平和の尊さを学ぶためのさまざまな取り組みが行われてきた。沖縄本島南部の南風原(はえばる)町は2015年から、陸軍病院南風原壕群20号の臭いを公開している。

20号壕は、日本の帝国陸軍第32軍が病院として使うために山中に掘った人工の洞窟だ。壕内の臭いは、戦争体験者らの証言などを元に、人体に影響のない7種類の化学薬品で再現された。【参考記事】陸軍病院壕の臭い追体験 沖縄戦時を再現、公開 南風原町(琉球新報)

9月28日、私は壕を訪れた。強い日差しに少し汗を流しながら、入り口でヘルメットと懐中電灯を受け取った。「臭いを嗅ぎたいのだが」と申し出ると、係員は「じゃあ、壕に入る前に嗅いでもらいましょう」と言い、事務室で保管している臭気の瓶を取り出した。

瓶は、透明な青色で、手中に収まるほどの大きさだった。一見すると、清潔な匂いがしそうな瓶に「壕内臭気」というシールが貼られている。文字のフォントは丸みを帯びていて、あくまで優しい印象だった。

「はい」と手渡された私は、瓶を右手に持ち一呼吸置いた。軽く深呼吸してから目を閉じて、瓶を鼻に近づけて臭気を吸い込んだ。吸い込みながら、臭いはこういう方法で展示するのかなどと考えていた。次の瞬間、頭が真っ白になった。

古くて暗い病院の臭いと、食べ物が腐った酸っぱい臭いがした。鼻から目にかけて、黄ばんだ一筋の煙がゆっくり移動していくような不快感を感じた。不潔な便所に押し込まれたような気分になった。喉の奥で、湿った土にまみれた黒い血の臭いを感じた。

「臭いは蒸発するので薄くなっているかもしれない」と係員は話した。私は目まいを感じ、無言で瓶を返した。

20号壕入り口で嗅ぐことができる壕内の臭い=2017年9月28日、沖縄県南風原町
20号壕入り口で嗅ぐことができる壕内の臭い=2017年9月28日、沖縄県南風原町
JINHEE LEE

◾️臭いで伝える取り組み

 傷口からの炎症を防ぐため、手足や患部をのこぎりのようなもので切断する手術がほとんどでした。気管を切開して喉からビュービュー息がもれる患者、下顎がない患者、火炎放射器で全身を焼かれた患者などが収容されていました。

 この壕(ごう)が病院として使われたのはおよそ2カ月間です。1945年3月の入壕命令から5月の南部撤退命令まで。当初は内科でしたが、激戦化にともない負傷兵が増え、4月中旬から外科に変っています。ランプのほの暗い明かりで、麻酔なしの手術が行われていました。

南風原平和ガイドの会の金城美根子さんは淡々と、気持ちを込めた静かな声で、説明を続けた。

 壕の入り口は当時、布をカーテンにしてふさいでいました。それを開けて中にはいると、強烈な悪臭が漂っていて、倒れんばかりでしたという証言があります。

 壕の中には台所もなければトイレもありません。歩けない負傷兵がたくさんいます。彼らの汚物を樽に溜めていました。樽がいっぱいになると、学徒さんが外に持ち出して捨てる。いっぱいになる前の樽が常時あるわけです。その汚物の臭いと、負傷兵の血と膿(うみ)、皆の汗が入り混ざって悪臭として漂っていました。

そんな臭いも苦にならず、「慣れてしまいました。いけませんねえ」と証言があるほど、戦時下の沖縄で悲惨なことが起き続けていたという。

金城さんの説明を聞きながら、私は嗅いだばかりの臭いを思い出した。壕の中で起きていたという情景が、臭いを通じて具体的に想像できた。72年前の出来事が、つい先ほどまで起きていた事のように感じられた。

◾️失神するほどの悪臭、漆黒の闇、恐ろしい冷気

第32軍は1944年3月に創設された。沖縄県那覇市に本部を置き、6月に市内で直属の陸軍病院を稼働させた。しかし、10月10日の米軍空襲で病院施設は焼失した。そのため、南風原国民学校校舎に病院を移転。さらなる空襲に備えて、周辺に約30の横穴壕を掘り、負傷兵の治療を続けた。

そのうちの一つが20号壕だ。全長は約70メートルで、高さと床幅はおよそ1・8メートル。直線型ではなく、意図的に若干のカーブを取り入れた作りだ。米軍に見つかっても、入り口から奥が見渡せないよう計算したものと考えられている。

壕の中は、中央の手術場を挟んで東側が病室、西側が軍医、衛生兵、看護婦用の待機場所となっていた。戦後公開された壕内の壁は一面真っ黒だったという。米軍の火炎放射攻撃で焦がされたためとみられる。また、中央部の天井に「姜」という文字が発見されており、朝鮮人兵士が刻んだものと考えられている。

私は、金城さんの説明を受けながら、懐中電灯を手に壕内を歩いた。西の入り口から入り、約5分後に東の出口から出た。通常は15分ほどかけて歩くという。私は苦しくて、それほど長く壕内にいることができなかった。

陸軍病院20号壕の西側内部=2017年9月28日、沖縄県南風原町
陸軍病院20号壕の西側内部=2017年9月28日、沖縄県南風原町
JINHEE LEE

壕の中は漆黒の闇で、恐ろしいほどの冷気に満ちていた。何も聞こえない暗闇の中、入壕前に嗅いだ臭いが一段と濃く思い出された。誰もいないはずの壕内で、今も誰かが苦しんでいるように思えた。早くここから出たいと感じている一方で、体は恐怖に立ちすくんでしまった。72年前の激戦の空気がそのままの形で漂い続けているようだった。

壕内の臭いについて、当時を記憶する生存者らは、これまでに次のように話している。南風原文化センターが、いくつかの証言をまとめている。

  • 耐えがたい腐臭で満ちていた
  • ブタの死骸とネコの死骸が腐ったような臭いに他の何かが混ざったような臭い
  • 血や膿、小便や大便、さらに汗臭いあかだらけの体の臭いなど、さまざまな臭気が混ざって壕内に漂い、気分が悪くなった
  • 包帯をは外すと、うじはボロボロ、膿もいっぱい出て、あまりの悪臭に何度も失神しそうになった
  • 傷口に必ずうじが発生した。生きた人間にうじが湧く。膿でジタジタになった包帯の中でムクムク動いて
  • 虫が入った芋が腐った臭いだったように覚えている。戦後は嗅いだことのない独特の臭いだった

◾️見て、聞いて、嗅ぐ追体験

1945年3月下旬、陸軍病院に入壕命令が出た。軍医、衛生兵、看護婦ら約350人に加え、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒らおよそ240人(ひめゆり学徒隊)が補助要員として動員された。

5月22日、第32軍は、沖縄本島最南部への撤退を決めた。陸軍病院壕も命令を受け、25日から撤退を始めた。この時、自力で歩けない重症患者に青酸カリを配り、自決を強要したとされる。金城さんによると、20号壕では青酸カリを調合した「ミルク」が配られたという証言があるという。

南風原町は1990年、戦争の悲惨さを伝える証として、20号壕を含む陸軍病院壕群を文化財に指定した。

南風原平和ガイドの会の金城美根子さん=2017年9月28日、沖縄県南風原町
南風原平和ガイドの会の金城美根子さん=2017年9月28日、沖縄県南風原町
JINHEE LEE

現場を見て、話を聞き、臭いを嗅いで追体験する戦争の恐ろしさは、想像を超えて生々しく衝撃的だった。取材後、私は夜遅くに原稿を書いたり、写真を確認したりすることができなかった。壕の中で犠牲になった人々と悲惨な沖縄戦の気配が、ただ単に恐ろしかったからだ。

だが、沖縄に住んでいる以上、この感触が頭を離れることはないと思った。そう思った時、恐怖感は徐々に、犠牲者が少しでも安らかに眠れる平和な世界を祈る気持ちに変わっていった。

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