自民党の政治家よ、ダイバーシティの本質を理解したくないなら、「多様性は重要だ」と声だけを挙げるのは終わりにしよう

ダイバーシティを認めるということは、「分かり合えない」ことを前提にして、互いにどこまで分かり合えないかを探って、許容することだ。
3月8日にスペイン・マドリードで行われたデモの様子
3月8日にスペイン・マドリードで行われたデモの様子
SOPA Images via Getty Images

昨今、日本でも、LGBTの議論がオープンになされるようになり、大学でも学生を呼ぶときに「君」と「さん」ではなく、「さん」に統一すると言う試みがなされている。また、憲法第24条(「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」)があるゆえかはさておき、法的に認められていない同性婚を国に先んじて、渋谷区などの自治体が「結婚に相当する関係」と認める証明書を発行するようになってきている(子供を持つことや税金など課題は多々あるが)。

くわえて、中野区と世田谷区は、今春から、全区立中学校で女子生徒もスラックスの制服(標準服)を選べるようにしている。つまり、ジェンダーを服装で区別するルールを撤廃し、生徒の選択の自由を広げたわけである。すなわち、個人の選択権を尊重する、つまり、ダイバーシティ(多様性)の受容である。

国際女性デー、スペインでは650万人の女性がデモ

日本でも報道されたと思うが、この8日の国際女性デーにスペインで女性による大規模なゼネストが行われた。800万人の参加を目指したこのストライキには、結果650万人が参加した。マドリードを始めとするスペインの主要都市で、夕刻からストライキ参加者が集結した。

当日、筆者はマドリードにいたのだが、中央駅前の広場は深夜まで多くの女性で埋まり、すごい熱気であった。フランスに比べて、依然として敬虔なカトリック信者が多く、男性中心文化の色濃い保守的なスペインでさえ、これだけの女性、特に、高校生も交じって若い女性が、男女対等をゼネストという行為を通して訴えることに、スペインでの社会の変化を強く感じた。

翻って、日本での国際女性デーはどうであったのであろうか。スペインのニュースを見る限り、街頭集会で、アジアで取り上げられたのは、フィリピンと韓国であり、日本は全くなかった。おそらく、街頭集会らしきものはなかったのであろう。

これが、ダイバーシティを語るうえで喫緊の課題である男女対等に対する日本の現実である。実際、いくら総理大臣が、女性が輝く社会といっても、「働く人の男女平等度」や「女性管理職比率」をみれば、世界の評価は、先進国、いや、先進国以外をふくめても超低空飛行、墜落寸前である。

この現実をみすえて、日本におけるダイバーシティを考える必要がある。要は、政治家は、国会議員の男女比率からして、利権絡みなので、率先垂範して比率を変える気は全くなく、社会もそれに強い反対を示さない。

日本社会の保守主義が阻んでいるもの

そもそも、ダイバーシティを重んずる社会の目指すところは、ジェンダーなどの属性を問わず、個人には選択権(より多くの選択肢と選択の自由)があり、その選択の幅と自由が属性により狭まったり、広がったりしないという意味で「人は対等」ということを担保し、それによって個人の可能性を拡大する社会である。これは、皆と同じを良しとする日本社会にとっては、大きな社会的変化であることは言うまでもない。

しかし、日本社会で根強い保守主義は、このような社会変化を受容することには消極的である。なぜなら、保守主義者は伝統や社会規範、常識といった自己の外部にあるモノをアイデンティティのよりどころにしているので、それらが変化することで自分のアイデンティティが揺らぐことを嫌うからである。強制ではなく選択的と言っているにもかかわらず、日本で夫婦別姓反対論者が多い、それも当事者でない高齢の既婚者が反対するのはその表れだ。

加えて、一般的に高齢者は変化に適応するのにかかるコストと、変化したことによって得られるリターンを比較したら、リターンの方が少ないケースが多い。そのため変化には賛成せず保守的になる傾向にあり、保守的な自民党、保守本流の安倍晋三氏が優位である一因はそこにあると考えられている。少子超高齢化が急速に進むなかで、この傾向は強まることはあれ、弱まることはないであろう。

日本国家は戦後、「一億総中流」というぶ厚い中間層の形成に成功し、その中で共有される社会規範・常識(ノーム)を基底に置く標準モデル(当たり前・これをしていれば安心)を通して、国民を管理してきた。

しかし、昨今、この「中流」という立場が揺らぎ、標準モデルが急速に喪失しつつある。この変化を見て、「当たり前」の中で暮らしてきた人々の中に、自己のアイデンティティの維持が危ういと感じ、従来のノームや標準モデルへの回帰に賛同する人が多くなってきている。これが保守主義支持者の増加につながっていく。

しかし、この流れは決して日本だけで起きていることではない。このような層が社会に一定数いることは不思議ではない。特に経済成長が鈍化すると、負の再分配が行われ、自分が不当に損をしていると感じるので、この傾向が顕在化すると言える。

現在欧米で起きている、「エリート」を「大衆」と対立する集団と位置づけ、大衆の要望こそ尊重されるべきだと考える極右の「ポピュリズム」は、これが背景にある。しかし、その対立構造は、マスコミの言う少数対多数ではない。

ダイバーシティとグローバル化が進んでいる欧米では、多様化による変容を認める「開いた世界」での変化にプラスを見出し、明日の可能性の拡大を志向する人々が先行し、変化にマイナスを見出し、伝統(因習)を重視、変容を拒否する「閉じた世界」での今日の安心を守りたい人々が反発をしている。

単純化すれば、後者がブレクジット支持者であり、トランプ大統領支持者であり、フランスの黄色い蛍光ベスト運動参加者である。

欧米で起きているこれらの対立は、国民を二分する、将来の可能性に対する志向性の問題であると言えよう。故に、マスコミで国家の分断と言う表現が頻繁に使われる。アメリカとイギリスは、明らかに二分していると言えよう。Divided StatesとDivided Kingdomである。

「分かり合えない」ことを前提にできるか

ではもう一度、日本に話を戻して考えてみよう。日本では格差とは言っているが、イギリス、アメリカ、フランスのような国を二分する運動は起きていない。その理由は明快だ。欧米に比べて、殆どの国民が「閉じた世界」におり、「開いた世界」のメリットを実感する、または、それを志向する人々が極めて少ないからである。

こういった状況を考えると、現実問題として、日本社会でダイバーシティが実現するのは簡単ではないと私は考えている。上記のように「開いた世界」を志向する人が少ないからだけではなく、多様化する社会においては、日本人が信じる「必ず相手とは分かり合える」という希望的言説は通用しないからである。

ダイバーシティとは、「個人の権利」という基本原理を前提に個人による選択の自由を尊重して、異なる価値観を認め合うことを相互に認める考えである。決して、自分の価値観を他者に押し付けることではない。

ダイバーシティを認めるということは、「分かり合える」のではなく、「分かり合えない」ことを前提にして、互いにどこまで分かり合えないかを探って、許容することだ。分かり合えない部分をできるだけ少なくするための模索を放棄しないことが重要なポイントとなる。

つまり、分かりあうのではなく、相手の考えとの違いを認めて許容する姿勢が根底に必要なのだ。その過程を通して、自分の意見や価値観も変容させていく柔軟性も求められる。

これは、個人をベースとした社会の脱構築、つまり、個人の価値観の多様化とその変容の総和としての社会の変化であると言える。人間が社会的動物であることを信ずれば、ダイバーシティを前提としても、自己の選択の自由を維持するために、人間は何らかの秩序を産みだすはずであり、それは、既存の政治家の望む秩序ではないだけであり、ダイバーシティの結果、無政府≒無秩序になると言う言説は現実的ではない。

日本人が大好きな「和」が排他的になることも

「人と一緒が良い」という行動姿勢は一見すると人間同士の和を連想させる。日本人が大好きな「和」を尊べば優しい社会になりそうだと思う人もいるかもしれない。けれど、それは裏を返せば、「そうでない人=一緒じゃない人」を排除する傾向の強い社会づくりを推奨することになりかねないことを自覚する必要がある。それは、ダイバーシティではない。

また「全ての人々を孤独や孤立、排除や摩擦から援護し、健康で文化的な生活の実現につなげるよう、社会の構成員として包み支え合う」ことを理念とする“ソシアル・インクルージョン”の実現は大歓迎という人もいるだろう。筆者もそうであるが、彼らを包摂する社会のダイバーシティの本質を理解しなければ、日本のソシアル・インクルージョンは、包摂すべき排除者を常に外部に生み出す構造になってしまう可能性が大いにあるのだ。ソシアル・インクルージョンを正当化する為に、排除者がかならず必要になるからだ。

上記のような理由で、日本において社会のダイバーシティを実現することはとても難しいのだが、それを追求する価値はあるし、もし、日本社会をグローバル社会に適応させていくのであれば、必要である。

日本の現実は「こうしておけば大丈夫」という当たり前のモデルーー例えば「男だから」ーーを喪失しつつある社会なので、国家は、国民を管理しづらい状況になってきている。

これは、日本社会が自ら変わるチャンスである。しかし、自民党政府は、今回の「移民と言わない移民解禁政策」や「産む・産まないを巡る発言」に見るように、時間をかけて既成事実作り、その結果としての、国家に都合の良いノーム(社会規範・常識)の再設定を目指していると思う。

それでは、本当の意味でのダイバーシティは生まれない。そもそも、国家(やある集団)が価値観を押し付けて、個人の選択の自由の権利を制限する状態はダイバーシティとは言えない。ゴーン氏の再逮捕や長期拘留をみればわかる様に、日本は、本質的に、個人の権利ではなく、当局(国家)の権限を重視する社会であることを忘れてはいけない。この機会を逃すと、日本社会のダイバーシティは、一層遅れることになると我々は自覚する必要があろう。

ダイバーシティは、あくまで個人の信条と選択の自由の問題だ。国家の視点から個人の選択の自由をどこまで認めるかを議論するのでは、本当のダイバーシティは実現できないはずである。日本の政治家、とくに自民党の政治家は家父長的な国家の視点からの議論しかしないので、本来のダイバーシティを評価して、推進する気はないと思わざるを得ない。

実際、ダイバーシティは、家父長的な国家にとって国民の管理が難しくなり、組織効率が悪くなるので望むものではない。自民党の政治家はそれを理解しているはずである。ゆえに、政府は、口先だけで、ダイバーシティは重要だなどと言うのは、やめるべきであろう。繰りかえすが、国家の観点からのダイバーシティは、国家に都合の良いダイバーシティであり、本来のダイバーシティではない。

自民党の政治家よ、ダイバーシティの本質とは何かを考えようとも理解しようともせず、掛け声だけ「ダイバーシティは重要だ」と掲げることをそろそろやめようではないか。日本政府にとって、本当のダイバーシティは不都合ですと正直に言った方がまだ良かろう。

日本国民が、本当に、ダイバーシティ(多様性)を望むのであれば、自ら声をあげて、意見を主張し、行動するしかない。社会、特に日本社会はなかなか変わらないのは事実である。

しかし、他人に期待して、自分から変わることをしなければ、間違いなく、社会はかわらない。まずは、一人でも不愉快に思うような発言はしてはいけないという、自ら言論封殺するような社会をあらためる必要があろう。自分の意見を言うことと、聞きたくない意見に耳を傾けることは、表裏一体である。まずは、オープンな議論を積極的に展開し、自己表示することが、第一歩である。

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