私の壁見えてますか
2020年05月08日 06時05分 JST

「母親らしく」から解き放たれよう。女性を縛る価値観に迫ってきたライターが考える「母親像」の呪縛

ライターの堀越英美さんは言う。お母さんには「こうすべき」ことが多すぎる。社会にとって「都合のいい」母親像が押し付けられているのではないか。

社会がお母さんたちに「反近代、反文明、道徳の守り手」としての役割を求め、それが窮屈さにつながっているー

『女の子は本当にピンクが好きなのか』や『不道徳お母さん講座』などで、女性や母親を縛ってきた社会の価値観に迫り、疑問を呈してきたライターの堀越英美さんはこう指摘する。

ジェンダーギャップが埋まらない日本で、女性を、母親を縛っているものの正体は何か。そこから自由になるために、私たちには何ができるのか。堀越さんに聞いた。

 

「自分が何者か」というのを守りながら育児をするのは、悪いことじゃない

堀越英美さん提供
堀越英美さん。かぶりものはお子さん制作のアカハシコサイチョウ(アフリカのサハラ砂漠以南に生息する鳥類)

ーー堀越さんは女性や母親がはめられがちな「型」を考え直すような作品をこれまで書かれてきました。こうした内容のものを書かれるようになったきっかけはなんですか?

幼稚園の頃に「服を買うお金があったら本を買ってほしい」と言って母を怒らせたくらい、女らしいとされることに興味がなかったんです。弟が2人いたこともあって、ガンダムとプログラミングと読書が好きな少女時代でした。でも、大学に行くと、「お前は女じゃない」「女が難しい本読んで意味あるの?」と言われる。そこで若い女はファッションや美容にしか興味がないと思われていることに気づいて、あれ?と。

自分も友人もその女性観とは違うのに、世間では「そういうこと」になっていて、私たちが「こじらせてる」ってことになっている。私たちが女であることは紛れもない事実なのだから、間違ってるのは世間の女性観のはずという思いが内心あった。

でも、大学を卒業して会社員として生きる中で、ぶつかるのも面倒くさいし、適当に合わせて生きていくか…と思うようになっていったんです。それが変わったのは、やっぱり子どもが生まれてからですね。女の子が2人生まれて、「自分が我慢してやり過ごしてきたことを子どもにも我慢させるのは嫌だ。声をあげた方がいいかもしれない」と感じるようになりました。

 

ーー新刊『スゴ母列伝〜いい母は天国に行ける ワルい母はどこへでも行ける』では、芸術家・岡本太郎の母で小説家のかの子など、もの凄く個性豊かな母たちが紹介されています。なぜこの題材を選んだのでしょうか。

今度中学生になる上の娘が生まれたばかりの時、「ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけない」という言葉の多さに戸惑いました。授乳しながらテレビを見てはいけない、母乳のために甘いものを食べちゃいけない、離乳食はできるだけ手作りに…など。周りからは気軽に勧められるけど、本当か?と思うものもあるし、「しなきゃいけない」ことに押しつぶされそうになっていました。

そんな時に勇気付けられたのが、岡本太郎の母・かの子が、仕事中に太郎を柱に縛り付けていたという話です。

もちろん今やったら虐待だし、当時でもやりすぎだったと思います。育児の参考にはできない。それでも「息子はあんなに立派な芸術家に育っている」というのが、私にとっては救いになったんです。じゃあ、私の子育ては大丈夫だろう、と思えた。押しつぶされそうになっていた気持ちが楽になったといいますか。なので、私以外にもこういう「個性を出しちゃってる母たち」が心の支えになる人がいるんじゃないかと思ったんです。

フェミニズム的な観点からは、職業人としての女性を取り上げる際に「母」の側面を取り上げるのは良くないとされていますが、「母親」を語る言葉がワンパターンに陥りがちであるからこそ、アクの強い母たちに目を向けてみたいと考えました。

 

社会がお母さんに「道徳の守り手」の役割を求めている

堀越英美さんの著書

ーー子育てに関しては「こうすべき」という話がたくさんありすぎて戸惑うことがよくあります。「3歳児神話」など、親を縛る考え方は本当にたくさんありますよね。

しかもそれが、全部お母さんを我慢させて、追い詰める方向に行っている。お母さんは自分を殺して、趣味を捨てて、子どもに尽くさなきゃいけないという雰囲気があります。

でも、子どもを産んだからといって、人間ってそんなに急に変わらない。自我は押し殺したら消えるものでもない。「これが正しい」と言われていることだって、全部は引き受けられません。

個性を押し殺して完璧を目指すって、すごく息苦しい。自分が完璧を目指すあまり、子どもにも完璧を求めてイライラしてしまうこともあるのではないでしょうか。それは子どもにとっても良いことだとは思えません。

もうそろそろ、そういう価値観から解き放たれた方がいい。周りの求める「母親」に合わせすぎるのではなく「自分が何者か」というのを守りながら育児をするのは、悪いことじゃないはずです。

例えば、母親ではないけれど、ビッグダディを見てください。すごくアクが強くて様々な批判はありますが、子どもたちはそれぞれ良い子に育っているように見えます。「こうあるべき」から離れて個性的な子育てをしたからといって必ずしも悪い方向に行くわけじゃありません。

『スゴ母列伝』で紹介している母親たちも、「正しい母」になりきろうとするのではなく、自分を貫きます。個性むき出しで子どもとぶつかり合う姿は、「自分のまま育児をしてもいいんだ」と感じるきっかけになるのではと思っています。

 

ーー堀越さんは『不道徳お母さん講座』でも、子どものために自分を犠牲にする母親像が尊ばれ、女性たちにその価値観が押し付けられていると指摘しています。これらの背景には何があると考えられますか。

社会がお母さんたちに文明化されていない「道徳の守り手」としての役割を求めていることが、価値観の押し付けに繋がっていると感じます。

明治時代以降、政府は近代化をすすめる一方で「子どもや若者が新しい文化に触れることで自我が芽生え、道徳に従わなくなるのは避けたい」という考えがあった。そこで「悪しき近代文明から子どもを守る母」というイメージが利用されていったのではないでしょうか。

これは例えば、子どもに何かを制限しようとするときにうまく使われていると感じます。昔は悪書追放、今ならスマートフォンやインターネットの利用でしょうか。自らを犠牲にして子どもに尽くす「道徳の守り手」として神格化されたお母さんたちが反対している、という形にすれば権力を透明化できる。保守的な政策を進めるとき、そうした存在は便利です。

「子どもから目を離している」という点では同じなのに、子どもを見ながら本を読んでいるのは良しとされ、スマートフォンを見ていると叩かれる。母親になる前は「女性らしい」ファッションやネイルを楽しむことを期待されるのに、子どもが生まれた途端におしゃれをしていると叩かれるというのも、この考え方から繋がっている価値観ではないでしょうか。お母さんはできるだけ自然に近い、道徳的に正しいとされる姿でいた方が都合がいい、という面があるのだと思います。

 

女性がジーンズを履くことにも、自転車乗ることにも社会は慣れた。声を上げることにも慣れてもらおうじゃないか。

Getty Images
2019年には、理不尽な「ブラック校則」が話題になった。

ーー「女性はこうあるべき」「母親はこうあるべき」という考え方から社会全体が脱却するためには、どうすれば良いのでしょうか。どこに課題を感じていますか?

学校教育に課題を感じることは多いです。一番は、本当の意味で「個人で考える」ことをさせていない点です。小学校の道徳や国語は特に「先生が求めている答えを子どもに答えさせる」という授業になっているのではないでしょうか。少し前に話題になった、先生すら理由が説明できない厳しい校則もそうです。

本来「個」を確立するまでには、自分の価値観を叩きつけてフィードバックをもらい、ブラッシュアップしていくものです。でも、学校でそんな機会はない。そういう中で過ごしていくと、期待される役割を「それがなんのために必要なのか」を問わずに効率的にこなしくていくことが「善」になり、結果的に「こうあるべき」という考え方を強めてしまう。

 

ーーその考え方が男女格差の是正や、ジェンダーロールからの脱却を目指す動きにも影響を及ぼしているということですね。

男女格差をなくすための運動は、今の社会のあり方に「違う」と声をあげて突き付けていくものですよね。その「異論を唱える」ということ自体が「悪」と見なされてしまう部分もあるのではないでしょうか。従順であるのが正しいことだと学校で教わっているんですから。

さらに、意見の内容どうこうではなく、女性が意見すること自体が悪い、「女は黙ってニコニコ大人しくしておくもの」というような価値観は、まだ残っているように思います。自我を持たずに何でも受け入れる「母性」的な存在であることが期待されているから。でももうこれは、女性が声を上げ続けて、慣れてもらうしかないと思う。

女性がジーンズを履くことも、自転車に乗ることも、小説を読むことも、否定された時代がありました。でももう全部慣れましたよね。

お母さんも人間。完璧でなく、「反近代、反文明、道徳の守り手」でもなく、一人ひとりが異なる人格を持った個人であることに慣れてもらいましょう。もちろん、意見を言えば反発もあります。でも、「保育園落ちた日本死ね」という匿名ブログが話題になったときは、「ひどい言葉を使うな」と批判が殺到した一方、待機児童問題が広く知られるきっかけにもなりました。社会に物申す母親の存在に、少しずつ世間も慣れてきています。

周囲から求められる「母親らしく」に押しつぶされることなく、諦めず声を上げていこう、と言いたいです。