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2020年05月27日 17時11分 JST | 更新 2020年05月27日 22時37分 JST

出演者の“人格”がコンテンツ化するリアリティ番組が生んだ悲劇

『テラスハウス』に出演していた彼女/彼らは人目に晒されることに慣れないまま、突然SNSによる罵詈雑言を受け止めなくてはならなかった。木村花さんの死は、リアリティ番組の問題を浮かび上がらせる。

テラスハウス公式サイトより

『テラスハウス』に出演していた木村花さんの訃報は、リアリティ番組の問題を浮上させた。

朝日新聞も報じたように、リアリティ番組の出演者が死に至る事態は、00年代前半から世界的に生じている。

近年、日本でもさまざまなリアリティ番組が人気があった。なかでも『テラスハウス』がヒットした2015年頃から、その傾向はより強まった。SNSで視聴者の感想と反響することによって、強い相乗効果を発揮していったからだ。今回の悲劇は、そうした人気の先に生じてしまった。

 

恋愛コミュニケーションをコンテンツ化したテラハ

リアリティ番組を考えるとき、まず確認する必要があるのは、その定義やジャンル、そして歴史だろう。

定義は簡単ではないが、さまざまな番組の傾向を総合すると「作為性が強いドキュメンタリー」ということになるだろうか。制作側がなんらかのイベントを仕掛け、台本がない状態で出演者がそれに応える内容だ。

そのタイプを独自に分類すると、

〈1〉オーディション系
〈2〉サバイバル系
〈3〉日常生活・紀行系

以上の3つにまとめられる。

〈1〉のオーディション系とは、歌手やコメディアンなどのタレントを発掘する番組だ。

その特徴は、歌や芸など評価対象が明確なことだ。たとえば、近年日本でも人気なのは、アイドルグループを創る韓国発の『PRODUCE 101』シリーズ(2016年~)だ。

この番組から生まれた日韓合同グループ・IZ*ONEや、日本版から3月にデビューしたばかりのJO1は、いまも大人気だ。

海外では、歌手のケリー・クラークソンを輩出したアメリカの『アメリカン・アイドル』(2002年~)や、過去にスーザン・ボイルを発掘し、昨年アメリカ版に芸人のゆりやんレトリィバァが出演して注目されたイギリス発の『ゴット・タレント』シリーズ(2006年~)などが知られている。

〈2〉のサバイバル系は、ゲーム的な環境に出演者を放り込んで競わせるものだ。

その嚆矢となったのは、2000年に始まったアメリカの『サバイバー』だ。日本版も制作されたこの番組は、10数名の一般の出演者が無人島などの極端な環境で生活をともにし、週にひとりずつ投票で脱落者を決め、最後まで残った者が賞金を獲得できるという内容だ。現在につながるブームに火をつけた番組でもある。

これに類するサバイバル系の番組は多くあるが、最近では日本版がAmazonプライム・ビデオでも人気だったアメリカ発『バチェラー』シリーズ(2002年~)も含まれるだろう。これはひとりの出演者が、多くの異性のなかから交際相手を決めるという内容だ。

一般的に、リアリティ番組でもっともイメージされるのはこのジャンルだろう。

〈3〉の日常生活・紀行系は、〈1〉や〈2〉のような競争の要素が乏しく、目的がさほど明確でないことが特徴だ。

今回問題となった『テラスハウス』もここに含まれる。

その内容は、若者たちがシェアハウスで共同生活するだけで、特段の目的はない。恋愛を中心とした出演者のコミュニケーションそのものがメインコンテンツだ。

『テラスハウス』以前のフジテレビの『あいのり』(1999~2009年、2018年~)も同様だ。また韓国でも、芸能人男女が疑似結婚して共同生活する『私たち結婚しました』(2008~17年)や、5、6人の芸能人が田舎を旅行する『1泊2日』(2007年~)などが人気だ。

このようなタイプは、日本や韓国で人気が高いものの、欧米ではあまり目立たない。東アジアと欧米での人気の違いは、ルームシェア文化の有無(欧米では一般的)が関係しているのかもしれない。

テラスハウス公式サイトより

“残酷ショー”として人を魅了するリアリティショー

世界中で人気のリアリティ番組だが、日本はちょっと特殊な変遷を経ている。

というのも、振り返ると日本は日本テレビ『進め!電波少年』の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」(1996年)や、テレビ東京『ASAYAN』(1995~2002年)の「ヴォーカリストオーディション」など、とても先駆的だったからだ。

しかし、その勢いは長続きしなかった。

その後、人気だったのはフジテレビ『あいのり』と各局の大家族番組くらいだ。

『テラスハウス』も、『あいのり』の一時終了から3年後に静かにスタートした。00年代中期から10年代中期までの10年ほどは、日本においてリアリティ番組はあまり流行らなかった。

だが、実はその間も日本ではそれに類するコンテンツは人気だった。 

時事通信社
AKB48総選挙ランクインコンサート

その代表が、AKB48だ。秋元康がプロデュースするこのアイドルグループが独特だったのは、メンバーが多いだけでなく、運営側の関与が限定的だったことだ。メンバーたちは歌やダンスのトレーニングをほとんど受けることはなく、自分たちで試行錯誤をする。その模様は、2011年から16年までほぼ毎年公開された映画『DOCUMENTARY of AKB48』に収められている。

ただ、そうした体制よりも重要となっていったのは、年に一回おこなわれるファンによる選抜総選挙(人気投票)だ。序列を数値化するこの企画は、メンバーの競争心を煽り立て、強いストレスを与えることとなった。

それが悪いかたちで表沙汰となったのが、2013年の丸坊主騒動だろう。ゴシップが発覚したひとりのメンバーが、頭を丸刈りにしてYouTubeで謝罪した一件だ。

テレビ番組が中心ではなかったが、AKB48は典型的なリアリティショーだ。

強いストレスが生じかねない環境に置かれた出演者がコンテンツそのものなのは、他のリアリティ番組とも共通する。

ファンや視聴者は、そうした出演者たちの艱難辛苦を見て感動し、排泄のように涙を流し、ときにはひどい罵声を浴びせる。

リアリティショーとは、常にすでに生々しい“残酷ショー”として多くのひとを惹き付けてきた。

 

10年代のSNSの登場が強いシナジー効果生む

『あいのり』、『サバイバー』、AKB48──こうしたリアリティ番組/ショーに共通するのは、出演者の人格(パーソナリティ)こそがメインコンテンツであることだ。

作為的な環境に置かれた彼女/彼らのひととなりは、視聴者やファンに対する自意識によって先鋭化しがちだ。プライベートに近い自分の言動が第三者にどのように評価されるか、常に意識せざるをえない状況に置かれる。

注目されることへの恍惚と不安とは、まさに有名性がもたらすリスクにほかならない。ある種、ドラッグのような中毒性があると言っても、決して過言ではない。

加えて2010年代にはスマートフォンが浸透した。われわれの生活も大きく変えたこのツールは、多くのひとびとのSNSへの参入をうながした。

このとき、SNSとリアリティ番組は強いシナジー効果を生んだ。

Kohei Hara via Getty Images

出演者はみずからSNSで発信し、視聴者やファンはそれもリアリティショーの一部として捉えるようになった。SNSで見られるパーソナリティも番組と地続きだからだ。

このとき問題なのは、出演者の多くがたとえ芸能人だとしても、さほどキャリアがない一般に近いひとであることだ。

にもかかわらず(だからこそ)、リアリティ番組は出演者を短期間で一気に有名にしてしまう。それまで街を歩いていてもだれにも気づかれなかった彼女/彼たちはたちまち衆目に晒され、そしてSNSで自分の人格についてのさまざまな評判を突きつけられる。

つまり、有名性への耐性が構築されないまま、突然SNSで多くの匿名者からの罵詈雑言を受け止めることを余儀なくされる。リアリティ番組の出演者に悲劇が多いのは、こうした状況を引き起こしやすいからだと考えられる。

このとき必要とされるのは、やはり周囲のケアだ。制作側はもちろんのこと、出演者が所属する芸能プロダクションもかなり注意する必要がある。

ただし、この点でも業界的な変化を感じることは少なくない。とくに芸能プロダクションはそうだ。

前述したように、2013年にAKB48メンバーの丸坊主騒動があったにもかかわらず、2019年にはNGT48メンバーがファンに襲われる事件が生じた。この件で明らかとなったのは、グループの運営会社の杜撰なガバナンスだった(「終わりが見えないNGT48問題──AKS社と第三者委員会が招いた混迷」2019年5月18日)。

また、AKB48以降のアイドルブームや、タレント養成学校の増加によって芸能プロダクションに所属するひとも格段に増えた。15年前とは比較にならないほどに。そうすると、当然のことながらひとりひとりへのケア(マネジメント)は行き届かなくなる。

このように、番組とSNS、そして芸能界は、この10年ほどで大きく変化してきた。リアリティ番組には、ケアが必須の状況になった。

 

人格の“切り売り”こそが最大の問題

1998年に公開された映画『トゥルーマン・ショー』は、リアリティ番組を題材とした作品だ。いまほどリアリティ番組が盛んではなかった22年前のこの映画で、すでにその危うさは指摘されていた。

ジム・キャリー演ずる主人公は、生まれたときから仮構の街で育ち、その生活を常にこっそり撮影されて本人が気づかないままリアリティ番組に出演している。周囲の人物はすべて仕込まれた出演者で、彼の人生すべてがコンテンツだ。この映画は、違和感を抱いた主人公がその世界から抜け出そうとするプロセスを描いていく。

ただし、そうした彼の葛藤すらも番組はコンテンツとする。悲しみに暮れ、意を決して新たな扉を開こうとする彼に視聴者は同情し、涙を流しながら応援する。そして、感動的なクライマックスが訪れる。

 

──と思いきや、この映画にはもうひとつのエンディングが待っている。

さっきまでピザを食べながら大歓喜していた視聴者たちは、番組が終わるや否や、あっさりチャンネルを変える。瞬時に変転する彼らの姿は、テレビが暇つぶしでしかないごく一般的な視聴者像だ。 

有名性はこうした残酷さとともにある。見ず知らずのひとにちやほやされながらも、すぐに見捨てられる可能性をはらんでいる。他者からの承認と離反の緊張を常に抱えることこそが、有名性の最大のリスクだ。

しかし、現状では多くのひとがこの有名性の快楽に身を溶かし、パーソナリティを切り売りしている。リアリティ番組だけでなく、SNSなどに存在する一般のネット有名人も同様だ。

エゴサーチで神経をすり減らし、ブロック機能などで自身の怒りを管理しようとしても、中長期的に刺激され続ける人格は消耗していくリスクにある(「『怒り』を増幅させるSNSは、負のスパイラルを描いたまま2020年代に突入した」2020年5月25日)。

相当な覚悟がない限り、そしてたとえ覚悟があったとしても、それは極めて危ない橋だ。

(文:松谷創一郎/編集:毛谷村真木